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  越後ジャーナル
  パルジェ
近世三条城の位置示す「古城田畑絵図面」  2002・9・20

 新潟県三条市立図書館に所蔵されていた三条市中心市街地の古地図の何点かが、三条市歴史民俗産業資料館の古地図の展覧会で公にされてから、歴史に関心のある市民によって、さまざまに検討が加えられている。

 「地震口説きにも歌われ、江戸でも広く知られた三条地震のあった文政11(1828)年より3年前の文政8年に、「大橋間右衛門信」という人物が描いた三条城跡一帯の地籍図「古城田畑絵図面」が、寛永8(1631)年に廃城となった近世三条城の縄張りの跡をよくとどめており、特に注目を集めている。

 「三条市史」に掲載されている「享保3(1718)年裁許絵図」は、五十嵐川など周辺との関わりを見るには分かりやすいが、城そのものについては、あまりにも直線的に処理されていて、城の縄張りとして不自然な部分があるとされてきた。

 この絵図面は、裁許絵図よりも、100年遅れて描かれ、既に、堀などが埋められて、多少、形は変わっているのだろうが、基本的には近世三条城の縄張りの跡をよくとどめていると思われる。

 さすがに、戦国時代でも難攻不落の城といわれた三条城であり、その後、近世の城構えとして改築されているだけに、本丸、二の丸、三の丸の位置、外堀(お濠)のラインなど、新潟県の中央部、蒲原の要害の地にふさわしいスケールだ。

 廃城から絵図面作成まで、およそ200年近く経過しているが、意外なことに、三条城の城内は、本丸、二の丸、三の丸などは畑に、堀を埋めたてた跡は、「上」「下」「下下」など差はあるが水田に利用されており、宅地化が進んでいなかったことがうかがえる。

 宅地として利用されているのは、文政当時の役所、郷蔵、籾蔵などで、民家の跡は見られない。畑や水田の所有者は、三条市の目抜き通り大町から三之町あたりまでの地域に住む有力者で分筆、所有者名や面積まで細かく書きこまれている。

 宅地化が進んだのは明治以降と推定されるが、掲載してある地図と、現在の住宅地図を同じ大きさにして重ね合わせると、本丸とされている部分をはじめ、それぞれの位置関係も明確になってくる。

 これまで、近世三条城は、JR弥彦線北三条駅より、南西に位置する三条小学校の辺りとされてきた。確かに、外堀をも、三条城の内とみれば外れてもいないが、本丸となると、やや南に位置していたことがわかる。周辺には三条市中央公民館、三条地域消防本部中央分遣所など公共施設があるが、これまでの建設工事では城跡らしい報告はなされていない。

 公共施設の建設当時は、まだ、今日ほどの考古学ブームではなく、近世三条城への市民の思いなども薄かったから、事前の発掘調査も行なわれずじまいだったのだろう。

 最近では市民の歴史に対する関心が日ごとに高まり、三条市立図書館主催の「三条学(三条人物伝)」も満員の盛況。こういう時期だからこそ、地下に眠る城の形骸が大きく破壊されないうちに、せめて公共の施設のところくらいは、発掘調査をして基礎データをそろえ、絵図面と実際の遺跡の整合性を確認しておくことが重要だろう。

 文政8年の古城田畑絵図面を、現在の地図と合わせれば、三条城と現在の街区がぴったり一致するから、行政も、市民も、関心を持って、三条市が中世、城下町であり、それも、蒲原の拠点であったことに思いを馳せて、今後の三条市のPRにも役立てていきたいものだ。

 三条城跡を正しく確認していくためには、行政機関はもとより三条城跡に現在、事務所や家を構えている市民の理解と協力が不可欠なのだが。