HPに嬉しい反応 橋渡し役という目的果たす 2003・9・30
弊社がウェブサイトを立ち上げて、1年2カ月が経とうとしているが、このたび、サイト開設の趣旨に合致した嬉しい反応があった。
新潟県新発田市の雇用・能力開発機構新潟職業能力開発短期大学校生産技術科の渡辺寛厚さんからいただいたeメールで、中身を紹介すると、「前略 インターネットで『燕モールド金型組合』の記事を拝見いたしました。是非一度、船山英幸会長さんにお会いしたいのですが、連絡先を教えていただけませんでしょうか。私共は現在、学生達の就職先拡大とセミナー受講者拡大に、努力しているところであります。また、三条・燕地方にある金型関係の組合組織がありましたら、教えていただきたいのですが。宜しくお願い致します」というもの。
渡辺さんが見たという記事は、一年ほど前のニュースで、現在、会長は替わっているが、早速、本紙読者でもあるフナックスの船山英幸社長に、このメールを転送して、よろしければ、渡辺さんに連絡を取ってくださいと紹介した。
船山社長は、同短期大学校のことをよく知っておられて、開校間もない大学校で、同組合で、同大学校の先生を講師にお招きしたこともあるという。早速、現在の会長に連絡して対応したいという返事。
弊社がサイトを開設したのは、新潟県県央地域の建設的な情報を、本紙・越後ジャーナルの販売エリア外の人たちに伝達し、県央地域と他地域の情報交換の架け橋になることを目指してのこと。
時には、逆に、情報が悪用されて、不要なもののセールスに使われるかもしれない。しかし、今回のように、渡辺さんからのメールを船山社長に紹介したら、逆に船山社長の方がよく知っておられたが、橋渡し役を果たすことができた。
インターネット上で紹介するニュースは、厳密には、どこの、誰が、いつ閲覧しているかわからない。こうした形になって初めて、わかるわけだが、このほかにも、明らかに、県央地域外の人が、アクセスしてきていることがうかがえる。
訪問者の個別IPを数えるアクセス者数は、開設2年目を迎えた8月に、1カ月で1万4145人、1日平均456人に達し、9月は、1日最高744人、平均560人に達している。急速に伸びている。
これは、検索の際に、直接、越後ジャーナルやPALGEで、検索すればもちろんアクセスできるが、「燕モールド金型組合」という風に入力すれば、関係したニュースを検索することができるなど、極めて便利だからだ。
さまざまなニュースが、誰もが検索できるように、1年間、保存されている。このところの急速な伸びを見る限り、今後、アクセスする人が急増するだろう。
もちろん、当初の趣旨は、越後ジャーナルの販売エリア外の人に情報提供して、県央地域の行政、産業、文化を理解していただくことが狙いだから、いまのところ、アクセスは無料だ。
このサイトは、ひらたく言えば、本紙、並びに加茂田上版の読者や広告主、PALGEの広告主によって支えられていることになる。当サイトで情報を得ている人は、そのことに感謝しながら利用してほしい。
越後ジャーナルが、インターネットという手段によって、名前の通り、全県に、あるいは全国に情報提供できるメディアに成長している。読者、広告主も、弊社のウェブサイト開設の趣旨をご理解いただき、支援していただきたい。
県央地域以外の人びと、企業に、前向きな情報を提供しつづけることで、この地域が活力のある地域として認識されるだろう。ともすると、事件、事故など暗いニュースのみが広く伝えられやすい昨今のマスコミ事情のなかで、こうした情報伝達の姿勢が未来に向けてどれほど重要であることか。自覚を持って、努力していきたい。

ごう慢さ増す小池市長 周囲には滑稽に見える加茂市
新潟県加茂市議会9月定例会が、9月19日から開かれている。3カ月前の6月定例会で、市議会と小池市長が対立し、決まらなかった市議会選出の監査委員について、小池市長は、改めて小池市長の親衛隊「高橋禧雄」市議を提案した。
提案するのは首長だが、市議会から選出する監査委員なのだから、どこの市町村でも、首長は口を出すことなく、議会が議会人事の一環として、候補者を選び、推薦された監査委員を首長が提案するのが常識。
ところが、小池市長は、これまでも、正副議長はじめ議会人事にまで介入してきた。とうとう、小池市長の財政はじめ市政運営をチェックする監査委員まで、市議会が推薦した候補者で、元議長の関龍雄市議を提案することを拒否、小池市長はあくまでも、高橋市議を提案すると言い張って譲らなかった。
結局、6月定例会に、小池市長は、高橋市議を提案したが、市議会は反対多数で否決。しかし、小池市長は、ひるむことなく、もちろん反省する意思など全くなく、提案権を盾に、再度、9月定例会に、高橋市議を監査委員に提案。
樋口博務議長自身が、「小池市長に逆らわず」の精神で対処してきたのだから、小池市長と市議会との間で調整する力などない。
市議会推薦の監査委員まで、市議会の意思で選べず、小池市長の言いなりになるとしたら、もはや、市議会の審査能力などないに等しい。第一、市議会選出の監査委員の不在という事態が続いていること自体が異常なことなのだ。
しかし、小池市長の率いている加茂市政では、小池市長の考え以外は通らない。まさに、民主主義の弱点を盾に、選挙で勝って、あらゆるケースで、弱い部分を切り崩しながら、自らの意見を押し通してはばからない小池市長には、「選挙で倒す」以外に抵抗することはできない。
その選挙で、対立候補も出せなかった市議会、加茂市の有識者には、小池市長を批判する資格すらないだろう。
ただ、小池市長の行ってきた「市民のやる気」を削ぐ政治、したい放題の政治の足跡が加茂市の歴史に残るだけだ。もし、加茂市に、将来、歴史観のある市民が生まれるならば、この恥ずべき事態を暴くだろう。
それとて、「現在」だけが勝負で、過ぎてしまってからでは、なんの役にもたたない政治の世界、現実の世界では、あまり意味のないことだが。
もともと仕事をする気などあるのだろうかと疑われる市職員だが、その市職員も、完全に意欲を失っている。仕事をしようにも、加茂市の金庫は、資金が枯渇している。ただ、自らの定年の訪れるのを待ち、小池市長が退く日を待っているだけである。
独立した審査機関の市議会が小池市長の政治を何らチェックできない以上、市職員が抵抗できるはずがなく、ついに、市役所庁舎から精気が失われた。
市民も、もはや、小池市長に口だしする意欲を失い、ただ、小池市長のしたい放題を許し、そればかりか、合併問題などでは、加茂市長の権限以外の他市町村にまで口を挟んで、他市町村長から無視される無様。それすら、小池市長に警告する側近、市民もいない。
実に、滑稽なまち「加茂市」であり、所詮「ひとごと」と割り切って、わが身を大事に生きるのが大衆の処世術とするならば、「有能な小池市長」ひとりに全てを任せておくことが、賢明なのだろう。
市議会もいらないことになる。それでいいのだろうか。

自民総裁選の次は総選挙 2003・9・25
9月20日に投開票が行われる自民党総裁選も、マスコミの事前調査では、小泉首相の当選確実ということで、国民の関心は、トーンダウン気味。野中広務元自民党幹事長の「引退声明」による退路を断っての「小泉潰し」の策も、所詮、自民党国会議員内の揉め事に過ぎず、国民、自民党員の関心を引くものでなかったということか。
永田町周辺では、当初は、小泉首相の敗北を予測する声もあったようだが、日を追うごとに、小泉優勢となり、いまや、著名な政治評論家で、白鴎大学教授の福岡正行氏ですら、当初の予想が大きく外れ、「政策が違いながら、ポストで裏切った青木参院幹事長らが悪い」などという歯切れの悪い解説をしている始末。
小泉首相を除く各自民党総裁候補者らが掲げる、規模とタイミングはどうあれ、公共投資をはじめとした景気浮揚策を行うという政策論に、国民は期待を抱いていないようだ。これ以上、国が膨大な借金を増やし続けて、不安定な状況を先延ばししても、やがて国民に付けの回ってくる旧来型の自民党政治にウンザリというところか。
農業、建設業と並んで自民党の強い支持基盤だった商工業の中小零細な企業経営者の支持を得ようとする反小泉総裁候補の「中小零細企業がバタバタ潰れて、経営者が自殺している」という悲痛な訴えも聞かれる。
しかし、国際的な理由による日本のデフレが、政府の小手先の景気刺激策では、インフレに転換しないし、インフレになっても、かつてのように、国内全体が景気浮揚でわくような事態は起こらない。経営者は、現状の中で、なんとか、方向転換しながら生き残る道を模索しようと苦労を重ねている。
単純に、国の借金を増やして、一時凌ぎの景気浮揚策を講じても景気がよくならないことも体験済みで、それよりも、国全体の構造改革を進める中で、国内経済の安定を図ることを期待している。輸入品によるデフレの恩恵も享受しながら、経営の安定を図ろうとしているとき、湯水のように金を使う政治機構そのものに批判的になっているのだ。
もちろん、自民党総裁を選ぶのは、自民党の国会議員と全国の党員であり、自民党国会議員の6割の支持を取り付けているといわれる小泉首相だが、20日の投開票が終ってみなければわからないが。
いずれにしても、国際社会が不安定であり、国内の治安も日増しに悪化している。根深い宗教問題に端を発している国際紛争。政治体制の違いと、貧困から、一触即発といわれる北朝鮮情勢。国内でも、誘拐、殺人などが日常化し、なんの理由もないのに、誰もが、いつ、どこで、事件に巻き込まれ、命を落とすかわからない。これほど不安な状況はない。
もちろん、中高年者にとっては、かなりの期待を抱いてきた各種の社会保障制度が、瓦解するかどうかの瀬戸際である。若い世代は、はなから日本の社会保障制度を信じる気が起こらないほど、バブル景気の時のずさんな制度運営の付けが目の前にぶら下がっている。
政治家が果たさなければならない重大な事案が多く、まず、遅れている行財政改革などが実行できる政治の安定を期待し、その意味で、小泉首相の「改革」の姿勢に、幾ばくかの期待を抱いていると言える。
小泉首相は、自民党総裁に再選されれば、10月10日国会解散、11月9日総選挙に打って出る公算が大きいと言われる。総選挙による政治空白の期間をできるだけ短くして、強いリーダーシップのもとで、安定した国を築き、合併問題など地方政治改革の方向性に目安を付けて、年末年始を迎えたいものだ。

「自動車以外は負けている」発展著しい中国と県央の未来 2003・9・18
中国事情に詳しい、ある経営者は、「既に、製造部門で日本が勝っているのは、自動車関連部門だけ。あらゆる部門で負けている。中国は、沿海部の高速道路網整備に続いて、沿海部の各主要都市から内陸部に向けて高速自動車網を整備していけば、さらに著しい発展を遂げる」との見方を示した。
沿海部の主要都市は経済成長が著しく、逆に内陸部の開発の後れが際立っており、内陸部の開発が今後の大きな課題。江沢民に代わって、中国共産党総書記に就任した胡錦濤は、「資本主義と社会主義を融合させた独自の改革・開放を引き続き進めていく」という。
日本の工業にとって、競争相手は、もはや、台湾、韓国ではなく、中国であることは、日ごとにその影響が強まっている新潟県県央地域の製造業にあっては十分過ぎるほど理解されている。
中国の工業の発展を考えないでは、日本、そして県央地域の製造業の将来を考えることはできない。そして、中国の発展の勢いは極めて速いし、幅が広い。台湾、韓国の場合は、人口が限られていたこともあって、初めは日用品雑貨など労働集約型だったが、資本集積が進み、人件費と技術レベルがアップするや、ただちに弱電、自動車などハイテク産業へとシフトしていった。
ところが、中国は12億人とも13億人ともいわれる人口を抱えている。広大な領土のなかで開発されているのは、沿海部のみといっていい状態。既に、沿海部では、ハイテク産業が興隆しているし、人件費などもアップしている。もちろん日本の人件費の比ではないが。加えて、内陸部は、まだまだ人件費が極めて低い。
したがって、日用品雑貨など労働集約型の産業は、どんどん内陸部にシフトしている。県央地域のメーカー、商社なども、コストの安い、新しい製造工場を求めて、奥へ、奥へと進出している。
限りなく発展していく世界の工場中国に対して、県央地域の製造業はどう対処すればいいのか。いろいろな経営者に会うごと、「中国対策は?」と尋ねるようにしている。大量生産の商品、部品は、いかに、日本で無人化を図っても、太刀打ちできない。中国も、資本を蓄えて、どんどん最新鋭の機械を導入している。
資本の蓄積では、日本の税制は「なかば社会主義国家」と言われるくらい、所得が多いほど税率がアップする累進性が強いから、資本集積はできない。米国とはもちろん、中国とも資本力の競争では、一部、大手企業を除いては、勝ち目がない。
また、中国は、製造業の国際競争力が増すにつれ、国際的な市場を把握し、流通業にまで進出している。ビジネスチャンスを追い求めるという意味では、日本のメーカー、商社をも凌ぐと言われている。
県央地域の製造業、卸売業は、中国で、商品、部品の生産、仕入れを行うにしても、大量に生産される分野は避けて、小回りのきく隙間商品を狙うべきだろう。また、国内での生産を目指す製造業、国内で生産される商品を仕入れる卸売業は、流行のある変化の激しい商品や、一つの商品の付加価値が極めて高い、知識集約、技術集約された商品を製造、販売するのが望ましい。
とにかく、生き残るには、中国の現状と、将来性を、「中国はやがて政治的に破綻する」といったような見方をするのではなく、肯定的に受け止めて、対策を立てなければならない。そうすることで、生き残る道も見えてくるだろう。
それだけに、初めに紹介した「自動車を除いて、あらゆる商品が中国に負けている」という言葉はショックが大きく、県央地域の経営者の目を覚まさせてくれる強烈な衝撃力を持っている。

共産党市議らの策に乗らず 2003・9・10
市町村合併の是非とその枠組みを住民に問うため、住民投票条例案についての折衝が続いていた新潟県燕市議会では、高橋甚一燕市長の意向通り、三条市など4市町村と燕市という旧県央東部の枠組みでの合併を進めようとする合併推進派と、合併反対の共産党並びに吉田町との合併を進めようという慎重派との交渉が、9月3日に決裂。近く臨時会を開いて、双方が異なった条例案を提案して採決することになった。臨時会は、9月定例会に入ると開けないため、合併推進派が要請して、9月定例会開会の前日、8日に招集される。
合併推進派は、一時、高橋燕市長の意向に沿って旧県央東部の是非を問う案と、慎重派の考えに歩み寄り、旧県央東部と吉田町の双方で賛否を問う案を出して、慎重派と協議してきたが、なかなか協議がスムーズに進まず、時間が経過。
平成17年3月までに合併するか、合併の合意が得られていないと、新市の都市づくりに使う合併特例債の起債が認められないという期限が迫るなかで、すでに、三条市など4市町村は、11月下旬には合併法定協議会を設立する方向で、設立準備会も設置している。
燕市としても、この時期までに、合流できる体制を整えなければならない。それには、慎重派の主張する、条例制定から120日以内に住民投票を実施する案では、遅れ過ぎて間に合わない。その上、雪国では12月、1月では投票率が低下しこそすれ、上がらない怖れがある。
また、共産党市議らがこだわっている、投票率ではなく有効投票数が、投票権のある市民の数の50%を超えなければならないという一項が、限りなく投票を無効にし、引き伸ばしを図るだけの数字として、推進派は妥協できない。
市議会がまとめられないのであれば、住民投票もやむを得ないという、高橋燕市長の意向の通り、三条市など4市町村と合併すべきだとする高橋作衛会頭はじめ、燕業界代表らや、高橋燕市長の後援会の役員などからは、共産党市議らのペースに振りまわされている合併推進派に対し、妥協すべきでないという強い意見が聞かれる。
慎重派が、真に吉田町との合併を模索するのであれば、全国的に合併反対の方向で動いている共産党の市議らと一線を画して、推進派と話し合いのテーブルについて、協議すべきだった。ただ感情論に走り、高橋燕市長に、県央東部合併研究会を「一時休止」させて欲しいとまで言わせる異常な事態に追い込んだ。
その上、住民投票の実施をできるだけ遅らせ、さらに、住民投票そのものを無効にしようという厳しい条件を出す共産党の市議らの提案に乗せられている。共産党の市議らも、推進派の市議に、合併に反対なら反対で、本音で話して欲しいという厳しい追及にあっている。合併に反対なら反対で、その理由を述べて堂々と闘うべきだろう。
金子勝前吉田町長と、女房役だった泉光一現町長が、本心は、燕市と一緒に、県央東部と合併したかったという事実、町議会の反対にあって、金子前町長は自らの命を絶ち、泉現町長も、衣鉢を継ぐ町長選で、当選するため、不本意にも、百歩譲って、まず、燕市との合併を模索すると公約せざるを得なかった。
この状況を見ても、吉田町が、燕市との合併に傾くには長い時間がかかるし、合併できる保証もないことがわかる。それにもかかわらず、慎重派が県央東部との合併を阻止してきたことは、単に、共産党市議らの策に乗せられて、燕市を路頭に迷わせる結果になっているだけである。
慎重派は、「燕市は合併する必要性がある」と認めるのであれば、まず、旧県央東部との合併を可能にすることだ。一部を除き多くの吉田町議も、単独ではいけないことを十分理解しているように見受けられるのだから、泉町長も「燕市を含む新市との合併」を堂々と言い出せる。
これが、県央地域の核都市を築き、新潟市と長岡市の中間点にあって、金属加工をはじめとする日本有数の産業都市を建設することにつながる。そして、経済力においては、上越市をも上回る活力ある県央地域を形成する道を切り開くことになる。
慎重派が感情論を捨てて、推進派に歩み寄るならば、慎重派が求めている燕市と吉田町が一体になっての都市づくりも最も近い時期に可能になると確信する。ここまでこじらせた高橋燕市長と燕市議会は、市民に事実を語って、新しい時代の都市づくりを進める責任がある。
時代に逆行する選択を許したとしたら、共産党議員の術中にはまったなどと言って済まされるものではない。推進派の住民投票条例案が可決されれば、三条市を含む4市町村との合併について是非を問う住民投票になるし、投票日は10月26日(日)頃になる公算が大きい。
三条市を含む4市町村との合併に対して、より多くの市民の支持を得なければならない。運動の中核になる推進派の組織の責任は重くなる。「指導力を発揮しなかった市長が悪い」、「特定の議員が好きでない」などと他人に責任をなすりつけることはできない。いかに、市民の理解を得る努力をするかである。

丸橋康文氏の「村山半牧小伝」 2003・9・8
「村山半牧は、幕末の三条が生んだ歴史的人物として、最も著名な存在となっている一人である」の書き出しで始まる、在野の歴史研究家、丸橋康文氏が南宗画家村山半牧の41歳の生涯を描き挙げた「村山半牧小伝」が、このほど、郷土史研究グループ三条歴史研究会(佐藤茂会長)から発刊された。
弊紙「越後ジャーナル」本紙に、「激しくも燃えて散った村山半牧の人間像」のタイトルで、阪神淡路大震災直後の平成7年1月18日から11月28日まで、222回にわたり連載された作品を1冊にまとめた傑作。
郷土史家を名乗る人びとのなかには、とかく、先人の書き残した作品を孫引きして、あたかも自らの研究の如くに吹聴している人も少なくない。特に、決定的な資料があれば、それを無批判に受け入れる傾向が強い。
そのなかにあって、丸橋氏は、蒲原の中世の歴史を記すにしても、ライフワークとも言うべき村山半牧はじめ、三条の生んだ文人について描くにしても、自らの足で、現場を歩き、関係者の話や保存されている些細な資料でも見逃さず発掘し、従来の伝承や資料を検証しながら、書き進めていく、真摯な郷土の歴史研究家として知られている。
その丸橋氏に、連載を依頼した細かな経緯は忘れたが、同氏とは、高校時代からの因縁で、人となりを知っていたし、その仕事ぶりを眺めてきた一人として、全幅の信頼を置いている。幼年時代のことはよく知らないが、三条市に生まれ育ち、三条市立第一中学校を卒業。県立三条実業高校機械科に進み、國學院大學に進んだ。
今でも覚えているが、三条市仲ノ町、安養院の次男坊で、新潟大学人文学部を卒業し、三条実業高校に赴任してきた米田恒雄教諭が、自ら取り組んできた古文書を解読することで、郷土の歴史を明らかにする歴史研究を生徒にも普及しようと、薄暗い同校の宿直室に、二人の生徒を呼んだ。
一人は丸橋氏であり、もう一人が小生だった。丸橋氏は、それを契機に郷土史研究の道を進む。小生は、当時、学校新聞を作る新聞部に在籍していたが、古文書研究には興味を示すことなく別の道を歩んだ。
やがて、小生も新聞記者の道に入り、丸橋氏と、ほとんどすれ違いのように、ごく短い期間だったが、同じ新聞社で机を並べて、記者生活を共にする時期があった。彼は、社会人になってからも、郷土史研究を続け、若くして頭角を現していた。
三条市直江町2に居を構えておられた故小松徳一先生の薫陶を受けながら、栄村誌編纂委員の一人として、郷土の人々に直接取材するという地道な研究姿勢を身につけ、三条市、栄町をはじめ、中世の蒲原の歴史研究に大きな成果を挙げていた。
村山半牧研究も、そうした郷土の歴史を研究するなかで深められていった。南宗画家を志して、幕末の動乱期を、江戸、京都などで過ごし、時代の嵐に吹かれながら、最後は見附市の片田舎で、首を吊って死ぬという、実に波瀾に富んだ半牧の人生と残された山水画の数々に魅せられたように、丸橋氏は、京都はもとより、九州・耶馬溪まで半牧の足跡を辿りながら、「半牧研究」の第一人者の道を歩み続けている。
新聞の連載という形式から、村山半牧の知られざる人生をわかりやすい文章で、一回、一回読み切りという形で書き綴った研究の成果を一冊にまとめた同書を読むと、ひいき目ではなく、一級の研究作品であり、なおかつ、小説以上にリアリティーのある人物伝になっていると実感できる。
本書の刊行に尽力した三条歴史研究会のメンバーの一人で、三条市立図書館長並びに三条市立歴史民俗産業資料館長の羽賀吉昭氏の話では、爆発的ではないが、本書を買い求める人が、日毎に増えていると聞き、心血を注いだ労作は、市民にも正しく評価されるものだと、改めて丸橋康文氏の偉業に感服している。
半牧の掛け軸を一幅でも所蔵している市民はもちろん、半牧展などで、朴訥ながら見る人を引きつけてやまない作品のよさを味わっている市民には、是非、同書をご一読されることをお勧めする。

合併阻止の共産党議員 「住民投票」で動きはじめた燕市議会
新潟県県央東部合併研究会を6月末に解散させた三条市と栄町、田上町、下田村の4市町村は、8月27日、同時に臨時会を開いて、合併法定協議会の設立準備会設置のための予算を可決。29日には4首長が調印し、9月1日、準備会が正式に発足、11月までに法定協議会をスタートさせる方向で動き始めた。
各市町村とも、共産党議員が巧みに一部反対の議員をリードして、住民投票に持ち込むなど合併推進の動きを阻止しようとしているが、国の財政難に伴なう地方交付税、補助金等の削減に対処するとともに、地方分権の受け皿づくりのためにも、合併の方向に一歩ずつ近付いている。
これに刺激されるように、解散前の県央東部合併研究会から「一時休止」の形で離脱した燕市でも、区長連盟が、市議会の議員発議による住民投票条例制定を要望したのを受けて、ようやく、活動を再開。
議員発議で、住民投票条例案の制定に向けて、三条市など、旧県央東部4市町村との合併推進派と、吉田町との合併を模索する慎重派とが、条例制定並びに住民投票の素案づくりで歩み寄りを見せ始めた。
建て前は、「合併には反対でない」としているが、共産党の機関紙赤旗を見れば、いかに同党が終始一貫合併反対のスタンスであるか分かる。各市町村で連携を取り合って、合併推進の阻止に動いている。本多了一市議ら燕市の共産党市議は、慎重派を隠れ蓑にして、合併推進を阻止する構えだったが、推進派の議員が、本多市議らに本音での発言を迫る意見の前に、抗し切れなくなってきている。
業界人をはじめ、合併に関心を持つ市民が、「燕市の合併問題はどうなるのか」と、真剣に考え始めた。燕業界では、29日に再度、懇談会を開き、市議会の現状と高橋甚一市長の考えを質しながら、旧県央東部の4市町村との合併が達成できるように、住民投票での成功を期す構えだ。
共産党市議を除く慎重派市議も、住民投票の結果であれば、旧県央東部4市町村との合併に潔く賛成するだろうし、逆に、推進派も、吉田町との合併が多ければ、それに従わざるを得ないだろう。
合併問題をめぐる、3月定例会、6月定例会の市議会の混乱を通して、市民もようやく、容易ならざる事態に気付き始めた。高橋甚一市長に、強力なリーダーシップを発揮するように迫り、市議会に対しても、旧県央東部4市町村との合併の方向で、強く働きかけ始めた。
合併推進派にとって、住民投票の成功が鍵になるが、特に、市民に働きかける際に、機動力になる燕三条青年会議所や燕商工会議所青年部など、若手業界人の参加が絶対条件になる。将来を担う青年業界人が、闘うことを避けては未来は暗い。
「町を二分し、しこりが残る」と、住民投票に反対する声もあるが、高橋市長が、先の市議選でも、市議を二分するような状況を怖れて、合併推進派の候補者を積極的に応援をしなかったことへの批判があるほど。
ここまできたら、将来のために、町を二分するほどの激しい闘いになっても、住民投票で圧勝することが、共産党市議らの策謀から、慎重派の市議を切り離し、合併の道を歩ませる唯一の道だ。
もちろん、推進派のなかにも、吉田町、できれば分水町も、燕市と一緒に、旧県央東部の4市町村と合併するのが望ましいと考えている市議もいる。燕市が旧県央東部の4市町村と合併することによって、むしろ、その方向に進展する可能性がある。特に吉田町は、燕市との合併を求めているが、燕市が三条市などと合併すれば、それらの意見は消え、新市との合併を模索しなければならなくなるだろう。
加茂市の合併推進派が、田上町との合併を臨んでいるが、田上町が三条市などと合併すれば、自ずと、新市との合併に方向を改めざるを得ないのと同様だ。小池清彦加茂市長が、いかに、パフォーマンスで合併反対を唱えていようとも、加茂市の財政は確実に硬直化しており、自主財源不足から、公共事業も急速に圧縮され、できなくなってきていることは自明のこと。
旧県央東部の4市町村が、ただ、燕市の事態の改善を待っているだけでは、燕市の事態も好転しない。今回、4市町村が同時に臨時会を開いて、法定協議会設立準備会の予算を提案、可決した。この審議を通して、各市町村の共産党議員が連携をとって、いかに合併阻止を目指しているかが明確になった。燕市の共産党市議も例外ではあり得ない。燕市でも事態は一気に動き始める気配だ。

牛腸茂雄さんの展覧会 東京国立近代美術館で開催
新潟県加茂市が生んだ写真家、故牛腸茂雄さんの写真展が、今年5月24日から7月21日まで、東京都千代田区北の丸公園の東京国立近代美術館で開かれた。あいにく今回は、展覧会を見逃したが、牛腸さんの実家の牛膓廣一さんから、その時の写真集を頂き、出展作品の写真と関係者の解説を合わせて知ることができた。
牛腸さんの一部作品は、新潟県長岡市の県立近代美術館に寄贈されており、7月1日から8月17日まで、同美術館第3展示室で「特集 牛腸茂雄 写真集〈SELF・AND・OTHERS〉」のタイトルで展示された。
頂いた写真集によれば、東京国立近代美術館の写真展に出品された作品は、「日々」より18点、「見慣れた街の中で」より、プロジェクターによる映写で47点、「水の記憶」より4点、「SELF・AND・OTHERS」より60点、「扉をあけると」より4点。これまでに見た作品もあるし、写真集で見た作品もあるが、初めて目に触れる作品もあった。
芸術家は、生前よりも、死後にその作品の素晴らしさが評価される場合が往々にしてある。牛腸さんも、1983年に体調を崩して、帰郷。36歳の若さで心不全のため、不帰の人となった。
小生と県立三条実業高校の同期なので、高校時代の牛腸さんを知っているが、子どものときに患った胸椎カリエスで、身体的なハンディを背負いながらも、勉学に励み、高校時代は、全国トップレベルの実力を誇った同校の商業美術クラブで、根気の要る基礎技術を学んだ。
卒業後は、グラフィックデザイナーを目指して上京、桑沢デザイン研究所に入学。同校講師だった写真家大辻清司さんの勧めで、2年の基礎科を終えたあと、研究科に進み、写真を専攻。
以後、写真家として、成長を遂げ、決して多くはないが、逝去するまでの間に、さりげない姿のなかに、人間の内面をとらえたスナップ写真を撮影し続け、個展や同人展を積極的に開催。1978年には、第28回日本写真協会賞新人賞を受賞。プロの写真家として将来を嘱望された。
身近な街角や、家族、縁者、友人などのさりげない姿をとらえた牛腸さんのスナップ写真は、衝撃的な報道写真や、当時、雑誌などでもてはやされていたヌード写真などに比べ、最初、目にしたときのインパクトは弱いが、限りなくやさしさの感じられる深みのある写真で、生前から、写真家の間では、高い評価を得ていた。
1989年、東京都・四谷で開かれた遺作展「幼年の〈時間(とき)〉」をはじめ、亡くなってから各地で開かれた作品展や、季刊の美術雑誌「デジャ=ヴュ」の特集などで、広く認められるに至った。
恩師大辻清司さんや、友人の三浦和人さんはじめ友人、作品を広く世に出すキッカケとなった「デジャ=ヴュ」の編集長飯沢耕太郎さんなど、多くの人々の力によって、東京国立近代美術館で、牛腸さんの作品展が開かれるまでになった。
辻村哲夫同美術館長は、写真集のあいさつのなかで「60年代末、社会には日常的な光景を淡々としたまなざしを向ける若い写真家たちが現われ、その傾向が『コンポラ』という通称で呼ばれるようになります。牛腸はその代表的な一人と目されました」とし、「牛腸茂雄の死後、すでに20年という時間が経とうとしていますが、その作品は常に静かな関心を集め続けてきました。自分を取り巻く世界の最も基本的な成り立ちにまなざしを向ける、彼の真摯な取り組みが、時代を超えた普遍性をもつからにほかなりません」としている。
増田玲さんの「同時代の中の牛腸茂雄」なども、優れたエッセイになっているが、ここで紹介するゆとりがない。機会をみて紹介したい。
牛腸さんを近代芸術家の仲間に入れることにはいささか抵抗があるが、いずれにしろ、日本の代表的な近代芸術家の作品を紹介している東京国立近代美術館で、牛腸茂雄さんの展覧会が開かれたこと自体が、牛腸さんとその家族、友人はもとより、母校三条実業高校にとっても名誉なことだ。
写真集は、日本語と英文の対訳付きで、広く世界の人に語りかけている。今後も、牛腸さんの遺業と作品の評価はさらに高まるだろう。

「百年の庵主さま」 木村霊山尼の生きざまに感動する 2003・9・2
ひたむきに生きる人生の貴さなど、楽して金が儲かることを考える人の多くなった昨今、「お人よし」と嘲られても、あまり誉め称えられることはない。しかし、いつの時代でも、与えられた人生を精一杯生きて、好んで選んだわけでもない苦しい日々を生きている人々の、人生の篝火となる人はいる。
8月20日午後、弊社に、なんの前触れもなく、突然、東京都文京区・(株)文芸社から、書籍小包が送られてきた。誰かからの寄贈本だろうと、軽い気持ちで開封したところ、桐生清次著「百年の庵主(あんじゅ)さま」という、ハードカバーで、300ページほどの本だった。出版社も、筆者にも心当たりはない。
寸刻を惜しんで、企業訪問を続けているなかで、昼間本を読む時間などない。運がよかったのは、プリントショップに出して置いたフィルムが焼きあがっているので、スタッフから取りに行ってもらっているわずかの待ち時間に、なにげなく本を開いたこと。
本に付き物の帯があったが、この類は、週刊誌の見出しと同じで、ほとんど、オーバーに書かれているので目もくれなかった。扉を開くと「百歳の頃の木村霊山尼」という聡明な老尼の、モノクロだが美しいスナップ写真が目に跳び込み、目次の第一章「生んでもらっただけでありがたい」という言葉にひかれて読み始めた。
数え年五つの時に、前橋に住む家から、新潟県柿崎町にある母の実家へ連れてこられ、そのまま、置いてきぼりにされた少女。後でわかるが、実家の跡目を継いだ叔父夫婦に子どもがなく、母と叔父夫婦の間に、「女の子が生まれたら、実家にやる(くれる)」と言う約束になっていた。
母は、実の子にその事実を告げる勇気もなく、そのまま、実家に置いて帰ってしまった。ところが、少女は、12歳で家を出て、尼さんになり、黒岩というところに、庵を構えていた伯母のところによく遊びに行き、ついには、叔父夫婦の家を継がずに、尼さんになるところから始まる。
筆者は、プロの作家ではなく、文体に少し無理なところも見られるが、平易な文章で読みやすかったのと、何をおいても、主人公の木村霊山尼の生きざまに魅了されて、その日のうちに読み終えた。
若い頃から苦労をいとわず、托鉢はもとより、村人に困ることがあれば、なんでも助けて、身を粉にして働き続けた生き方と、物欲、金銭欲がなく、感謝の気持ちで人様からいただいた金品は、困った人に施し、宿のない人には、寺を宿として貸し与え、引き受け手のない薄幸の子どもは里子として育て、期待して育てた子どもが期待通りに育たなくても「裏切られた」とすら感じないで、人が苦しみから救われる姿を見ながら自らの喜びとして生涯を全うする。
ここでは、ストーリーを紹介するスペースはないし、言葉で記すといとも簡単だが、普通の人には耐えられないであろう、さまざまなエピソードと、関わりをもった里子などの思い出などが綴られた一冊に、心のうちから感動が湧いてきた。
人は多くの人によって生かされているし、人から受けた恩はその人に返すことはできなくとも、縁あってめぐり合う他の人々に返すことができる。食べるものも満足でなかった戦前、戦後、庵寺のお地蔵様には、いつも、お米やおいしいお菓子などが献じられていた。
人々が、それが欲しいといって庵寺を訪れる。凡庸な人々には、ただ「お地蔵様にはよく上がりがある」と、現象面だけしか見えないし、木村霊山尼自身は「お地蔵様がよく働きになるので」と、感謝しているが、物欲、金銭欲がなく、全てを人のために役立ててきた同尼の人徳以外の何物でもない。
戦争という異常事態のもとでも、参詣する人が絶えず、上がりが尽きない。目先、小手先で生きようとする人々の多い世の中。これは、今も、昔も変わらない。そして、それぞれに時代を生きた達人の生き方も、時代を超えて人の胸を打つ。桐生清次という著者と出版に尽力された文芸社によって、木村霊山尼の人生の一端を知ることができたことに感謝したい。

