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町長に直談判の遠藤助役辞職劇 その背景と、表面化する市町村の財政難
                                          2004・2・17

 2月10日、突然、新潟県田上町の遠藤堅治助役が辞任。新潟日報の記者が、同日朝刊で、遠藤助役の辞任の背景をリークして詳細に報道。弊社の重藤記者は、10日午後5時15分の退庁時に、佐藤邦義町長はじめ、役場の幹部や一般職員などが見送る姿を取材した。

 佐藤町長は、神田卓爾前町長を破って当選したものの、学校の先生だったことから、人事の難しさを知らなかった。このため、当時の野口和幸助役が辞職したあと、すぐにも後任人事を決めると町議会本会議で答弁。

 人事を軽く考えるなど、この調子では、とても、助役の引受手はないだろうし、若い幹部職員には、「引き受けない方がいい」とアドバイスしたほど。結局、総務畑ではないが、建設畑が長く、気一本のところのある遠藤堅治助役が引き受け、政治的には子どものような佐藤邦義町長を補佐して、無投票で2期目当選を果たす功労者となった。

 ところが、合併問題では、継続中の下水道事業も一時中断するほど逼迫した町財政の状況で、下水道事業の再開や、「ごまどう湯多里館」脇から湯田上温泉に通じるトンネルを含む道路改良などを進めるには、「旧県央東部との合併が必要」という結論で、佐藤町長、遠藤助役など町執行部も固まった。町議会も一部の反対はあったが、合併推進の方向でまとまった。

 ところが、佐藤町長は、住民意向調査の結果、旧県央東部との合併反対が6割を占めたことに驚いて、遠藤助役や幹部職員、町議会代表に説明し、直ちに、旧県央東部からの離脱を決定してしまった。

 はじめから都市造りのビジョンの乏しい佐藤町長だったし、はじめは神田前町長打倒という意味で推した町民の心も離れてきている。2期目の選挙は合併を前提にしており、当選しても、合併すれば町長の首はなくなる。対抗馬が出なかった。

 新津市でも、市議会で「新潟市との合併」が否決されたが、合併推進派の現職市長が辞職し、合併推進の公約で再度、市長選に挑んでいる。住民投票などで、合併賛成派が負けても、首長の出直し選挙では、合併推進派の首長が当選しているケースが多い。

 燕市のように、旧県央東部合併推進派の高橋甚一市長が辞職し、出直し選挙で勝ったら、「住民の意思を尊重して、吉田町との合併推進へと180度転換」という異例なケースもある。燕市では、高橋甚一市長の人気は低落。9月の市長選挙に、若手の有力候補者でも出馬すれば、高橋市長は勝てないともっぱらの評判だ。

 佐藤町長も、今回辞任して、出直し選挙をした場合、勝てる保証はない。むしろ、旧県央東部合併離脱後、徐々に、明らかになってきた田上町の財政難。主要事業の見送りなどで、小泉政権誕生後、「三位一体の改革」の方針に対応した財政運営をしてこなかったツケが表面化している。

 結局、どこの市町村も、三位一体の行政改革を他人事のように受け止めて、積極的に行政改革に手を付けてこなかった。市町村の首長は、財政難の状況を刻明にすると、住民から自らの失政と糾弾されかねない。

 今回のように、幹部職員から助役になった遠藤助役が、佐藤町長に、出直し選挙の必要性を直談判したことで、ことの重大さが表面化した。燕市の高橋市長も、福祉日本一を訴えて、介護手当てなどを手厚くしているが、逆にそれが財政を圧迫している。

 いつも言うが、加茂市の小池市長などは論外で、加茂市の財政難をよそに、どんどん維持費のかかる建物を建てている。赤字再建団体になってから、合併するという遠謀があるのかどうか。それはともかく、公共施設の維持にコストのかかる加茂市をどこの市町村が引き受けるだろう。新市に無条件で吸収合併されることになるのか。

 いま、西蒲南部の法定合併協議会が解散することになって、最も困っているのは、寺泊町と弥彦村と言われる。産業基盤が弱く、国からの地方交付税交付金や国庫補助金が減らされると、最も大きな打撃を受けるからだ。目先のことだけを考えると、燕市などは、寺泊町や弥彦村と合併するメリットは少ない。

 結局、高橋一夫三条市長が、就任以来、行財政改革の先兵となって、市役所庁舎の維持費や人件費、団体への補助費をカット、公共工事の競争入札導入など、さまざまな改革を行ってきたことが、奏効する時期がきた。その三条市も、職員の賃金カットを継続するため、執行部と市職員組合との激しいやり取りが行われている。

 高橋市長は、賃金を2%くらいカットすることと、それに抵抗する市職員の言い分のどちらを市民が支持するだろうか、よく考えて欲しい、としている。市民から、職員給与並びにボーナスカットを求める声が出始めているほどだ。

 人事院勧告に基づく、原則全国一律の給与、ボーナスなどの現状に対して、権限が地方自治体に移譲されるのを機会に、地域の経済力、すなわち税収に見合った給与、ボーナスにしていくという行革が必要になる。

 小さな市町村は、合併なくして住民サービスを維持できなくなる。時代は大きく変わっている。それが合併推進を急ぐ遠藤助役の辞職劇の背景に見て取れるのだ。





業界人から反発の声 渡辺会頭の1期で退任に  2004・2・13

 三条商工会議所(新潟県三条市)の渡辺勝利会頭が、1期3年の任期を満了したところで退任したいという持論を、さまざまの機会を通じて明らかにしており、小生も、渡辺会頭の考えを紙面を通して伝えている。

 ところが、そのたびに、商工会議所はもちろん、商工会議所に関連のあるさまざまな業界団体の役員などから、渡辺会頭の1期3年での会頭退任に反対の声が寄せられてくる。

 渡辺会頭の2期目続投を望む声には、それぞれ考えがあるのだろう。とにかく、1期目で、三条商工会議所の機構や職員の賃金体系、会員事業所の会費計算基準の見直し、会議所部会と各種業界団体との共催事業の洗い直しなど、さまざまな改革を断行している。

 これまで、三条には、青年会議所、エコノミークラブ、トップマネージメントクラブ、青申青年部など、さまざまな青年団体があるので、あえて三条商工会議所には青年部はいらないとしてきたなかで、青年部の設置も決めている。

 次々と改革に手を染めており、まだ、改革は緒についたばかり。定着したとは言い切れない。是非、この改革を定着させて、安定したところで、次の人に会頭の席をバトンタッチすべきだという意見には耳を傾けるべきかもしれない。

 もちろん、渡辺会頭は、まだ、1期3年で退任する考えをこれからもいろいろな席で訴えていくだろうし、報道もなされるだろう。渡辺会頭の意思が明らかになればなるほど、2期目続投の声も強まるだろう。

 渡辺会頭が、後任人事で努力していることは、風の便りで聞くが、結実していない。それぞれに事情があって、後任の会頭を快く引き受けるわけにいかないのだろうし、渡辺会頭の改革は半ばであり、引き受けにくいのも事実。

 目下、4月から始まる平成16年度予算、事業計画を立案しているところで、会議所人事は、新年度がスタートしてから本格化するだろう。その時に、渡辺会頭の思惑通りに1期3年で退任できるのか、それとも、2期目続投となるのかが明らかになってくるだろう。

 長い不況と、企業間競争の激化によって、倒産、廃業する事業所も少なくない。逆に、勝ち組と目される事業所の急成長ぶりは目を見張るものがある。さまざまな業界団体も会員の減少、収支の厳しさが増すなどで、縮小する方向にある。

 なかには、協同組合を縮小、解散して、商工会議所の部会で面倒をみてもらおうというケースも出てくるだろう。商工会議所の果たすべき役割も大きく変わらなければならない。

 渡辺会頭の改革路線は、時代の波に乗っている部分もあるし、ほとんど機能していないような部分もある。そうした、改革途上にあって、減少傾向にある会員事業所の対策をどのようにするか、基本的な方針を打ち立てなければならない。会議所に多少なりと関係のある人々は、渡辺会頭が1期3年で、後進に道を譲ることを認めるかどうか。今後の動きが注目される。





南蒲原と西蒲原の中核市づくり 県央大合併は遠い将来のこととして
                                          2004・2・11

 新潟県分水町、弥彦村、寺泊町の合併を協議してきた、分水・弥彦・寺泊法定合併協議会が、弥彦村の離脱で、結局解散することになった。分水町と寺泊町は、合併に向けて第1回の懇談会を開いたばかりの燕市、吉田町との合併に合流したいという意向を表明するなど、西蒲原の情勢は、大きく変化する様相だ。

 結局、西蒲南部5町村の合併でスタートしながら、吉田町が離脱し、岩室村が新潟市と合併することになって、残った分水・弥彦・寺泊の3町村で合併を模索してきた。ここにきて弥彦村と分水町、寺泊町の思惑に隔たりがあり、「弥彦市」の誕生と弥彦村の役場を市庁舎に使うという構想は消え去った。

 西蒲南部は、吉田町が離脱して迷走が始まったのだが、逆に、燕市が、県央東部から離脱したことによって、燕市と吉田町の組み合わせとなり、さらに、分水、寺泊両町が加わることになると、新しい燕市・西蒲南部の枠組みはかえって大きくなる。

 本欄で述べてきたように、西蒲原は西蒲原で結束を強めることになるだろう。遠い将来、県央地域が、新潟市と合併する岩室村は除くとして、大同合併する意味では、回り道でも、いい結果になるだろう。

 もちろん、三条市と栄町、下田村の3市町村の合併は、予定通りに進めていく。燕市・西蒲南部の新たな動きに影響されることはないだろう。むしろ、3市町村が懸念すべきなのは、今回、佐藤邦義町長の軽率な判断から、県央東部離脱を決めて困っている田上町や、財政が逼迫し、市民から、「落ちるところまで落ちるしかなく、小池市長に最後まで責任を取ってもらうべきだ」と言う声さえ出始めている加茂市であって、いずれ、県央東部と合併せざるを得なくなる。

 長岡市との合併から離脱した見附、栃尾両市だが、見附市は、古くから三条市、栄町と深いつながりを持ってきたし、栃尾市は、見附市、下田村と深い関わりを持っている。遠い将来を見据えて、両市にも合併を呼びかけていく必要がある。南蒲原を大きな一つの市にまとめる構想を持たなければならない。

 三条市と、燕市の合併は、ますます、遠のくとしても、やむを得ないことだ。両市が合併できなかったのは、事実であるし、合併できなかったからといって、これだけ結びつきの強くなった両市の産業界が、疎遠になるはずがない。

 ただ、新潟市、長岡市、上越市に次ぐ、第4の都市として、県政に大きな影響力を持つチャンスを失ったことは大きな痛手だった。しかし、燕市が、一度、決定的な形で県央東部から別れた以上は、三条市としても、次善の策を立てて、取り組まなければならない。

 燕市・西蒲南部の合併がどのような方向に進むのかはまだ推測すらできない。高橋甚一燕市長は、9月に再度、市長選挙の洗礼を受けなければならない。同市長の人気は、辞職した時と異なり、低下している。特に辞職した理由は「県央東部合併がならなかったから」で、再選された時には、「吉田町との合併を目指す」という180度の転換を図ったことが、逆に、立場を苦しいものにしている。

 高橋燕市長が9月の選挙で再度当選できるかということも、今後の、合併のシナリオに大きな影響を及ぼすだろう。吉田町は、かつての西蒲南部の同志である分水町、寺泊町が、燕市・吉田町の合併に合流したい意向を示していることで、人口の多かった燕市と対等に渡り合える可能性も出てきた。

 少なくとも、新市の名称を「燕市」とする必要はなくなった。「西蒲原市」と言うのも悪くない。役場の位置でも、燕市の現庁舎では不便であり、吉田町と分水町の中間、116号線沿線ということも発想されよう。

 いずれにしても、南蒲原郡と西蒲原郡に、それぞれ中核となる新市が誕生することが重要だ。県央の大合併は20年、30年先の話である。それまでに、新潟市と長岡市の狭間で、経済力と政治的な求心力を失ってしまわないように、いずれの市民も努力を続けなければならない。






「三条」の由来 70周年を機会に考えよう  2004・2・6

 新潟県三条市は、ことし市制施行70周年の節目の年を迎える。また、平成17年3月の実現を目指す、栄町、下田村との市町村合併によって、新市の名称をどうすべきかが論議される年でもある。ところで、「三条市」のもとになった「三条」の名称の由来について、これまでも確定的な証拠がなく、多くの人たちが、根拠のないままに、勝手に想像し、論じてきた。

 郷土の歴史に強い関心を持つ市民までが、根拠となる資料の発掘や検討をしてこなかったのだから、一般市民の関心もなかなか高まらなかった。これを機会に、俗説を排除して、もう一度、「三条」の地名の由来を研究してみてはどうだろうか。

 三条市史に、確実に「三条」の名称が出てくるのは、南北朝時代の永徳2(西暦1382)年に「熊野御師覚有が『三条七日市場政所左阿ミた仏引』の旦那株などを慶達房に譲った」という「権大僧都覚有一跡配分目録」の記事だ。

 次いで、応永の大乱の時に、山吉久盛城将の守る「三条島之城」として出てくる。応永の大乱は、応永30(西暦1423)年に起こった、京都の室町将軍と親しい越後守護上杉房朝と鎌倉の関東公方と親しい守護代長尾邦景による、越後守護家の主導権争いで、山吉久盛は、守護代長尾邦景方について戦っている。

 さらに、三条市史は、資料として、京都府福知山市の桐村正春家所蔵の「大中臣氏略系図」を紹介している。この資料は、中世の歴史研究の第一人者網野善彦さんが、茨城県史の編纂に関わるなかで発見したもの。網野さんの著書「日本中世資料学の課題」によれば、鎌倉時代の常陸国で活動した大中臣姓の那珂氏は、丹波の金山氏の末裔。金山氏の流れをくむ桐村正春家に所蔵されている「大中臣氏略系図」は、「那珂氏一族の平安・鎌倉期の実態の全貌を一挙、明るみにだす」とともに、「出自が不明であった常陸の雄族中郡氏もその一族であったことを詳細に物語る、稀有の好資料」。

 この「大中臣氏略系図」に、「近藤武者・実広」の子孫が「越後国三条庄、大槻庄小河山、阿波国多奈保新居郷、出羽国雄勝郡西マウナイノ郷内アサイシカナイ両村地頭也」と記されている。

 実広の子孫に「三条三郎・国実」「大槻四郎左衛門尉・実村」、実村の子に「堀切二郎左衛門尉・実成」「大槻三郎・行実」「栗林五郎左衛門尉・行村」がいる。すなわち、三条、大槻、堀切などの地名は、鎌倉初期から中期にかけて、実広の子孫が越後の国、蒲原一帯の地頭などとして着任する以前から、すでにあって、それぞれの土地の支配者たちが、所領する地名を名乗ったものと推測される。

 網野さんは「平安後期、東国に根を下した大中臣氏一族が、中郡・那珂・近藤の三氏に分れ、さらにそれぞれの一族が地頭として…」と、この一族の東日本での影響について言い、一族が歴史の表舞台から消されたことについても、「『吾妻鏡』の意図的に消し去った史実が広くあることは、すでによく知られているころであり、中郡・那珂両氏の場合がその好例である」と言う。

 「大中臣氏略系図」の他の記載部分は、網野さんの研究によって、南北朝時代を下らない時期に書かれ、内容の信憑性が高いことが示されており、実広の一族が越後国蒲原地方に地頭として根を下ろしたことは十分説得力を持ちうる。

 また、大槻荘は、崇徳院御影堂領であり、常陸国の多くは八条院領が占め、大面荘もまた、八条院領だった。「関東知行国の年貢未納の荘園」として、越後国の大槻荘、大面荘、青海荘、福雄荘、石河荘などはあるが、三条の名はない。

 「三条庄」という名は、「大中臣氏略系図」に次いで、本成寺に伝わる阿弥陀如来坐像の裏にも「正和三年・三条庄○○」とある。正和3年(1314)とされる、この仏像の制作年代については、学者の間で、鎌倉時代とする説と、江戸時代とする説に分かれている。古文書に詳しい識者は、「現物を見ていないが、写真の文字を見る限り、中世の文字」としている。

 ところで、佐渡流罪が許され、しばらく越後に居た親鸞が、常陸国に赴いたのも、偶然だろうか、何かの縁であったろうか。三条市の市制施行70年を機会に、識者から三条市の歴史について、執筆頂きたいものと、期待しているのだが。






全国の景気回復で 弾みをつけてチャンスをものに


 例年1月は、アッという間に過ぎるが、今年も例外ではなかった。比較的、気候の穏やかだった前半。正月休みを終えてから、挨拶回りやさまざまな団体の新年会に出席するなどしているうちに、降雪に見舞われ、2、3日雪かきに追われて終わった。

 さすがに、1月は営業で積極的に回るということもなく、むしろ情報収集に力を入れ、景気の見通しはどうか、どのように事業を展開していくのかなどと、今年1年を見通す努力をしながら終わった。

 喜ぶべきか、嘆くべきか。全国的には、景気回復の兆しが顕著で、県外まで営業展開しているメーカーなどは、確実に景気回復の手応えを感じてきていること、新潟県の景気回復が大きく遅れているとみられていることなど、明暗が分かれている。

 何故、新潟県の景気回復が遅れているのか。地元三条の金物卸関連を見ると、中国などアジア諸国からの輸入品に食われていることが第一点。次には、国内でも、消費が冷えている分野の商品を多く生産しているきらいがあること。

 さらに、新潟県内の景気回復を遅らせている要因として考えられるのが、弱っている行政の財政力からくる消費の伸び悩み。政府は、昨年末に平成16年度予算を成立させ、その中で、地方自治体に配分する地方交付税交付金の大幅カットを盛り込んだ。

 産業振興の遅れている地域にとっては、税収が落ち込んでいるところに、さらに、依存度の高かった地方交付税交付金、国庫補助金などがカットされ、予算編成が苦しくなっている。

 予算編成が苦しくなると、まず、事業費を削減しようとする。公共事業などはその最たるものだが、目に見えて減額されるので、公共事業で飯を食ってきた建設関連業界などは危機感を募らせている。

 役所などでも、特別職や一般職などの報酬、給与のカットが行われているが、そんなことで追いつく状況ではない。これまでに増やしてきた借金の返済に追われている。好むと好まざるとに関わらず、公共事業のさらなる見直しをしなければならない。

 団塊の世代は、子育ても終わり、年金制度の崩壊という悪夢を想像しながら、自らの老後に備えて、保険や貯蓄に励まざるを得ない。大型消費に気持ちが向かない。郊外の住宅団地などに、どんどん新しい家が建っているが、子育て真っ盛りの世代の住宅が多い。

 これまで長い間、最も消費力のあった団塊の世代に、的を絞って、商売を進めてきた各種業界。団塊の世代は、健康、医療、保険などにますます強い関心をみせている。テレビ、雑誌などのメディアは、イラクに象徴される戦争、そして健康、医療、保険、それに環境問題などに目を向けている。

 団塊の世代ほどの消費力はないにしろ、次の世代が、育児、教育など子育てに力を入れており、住宅への強い欲求がうかがえる。このあたりをターゲットにして、新しい需要を喚起していかなければならない。

 とにかく、全国的には景気が回復しているのだから、新潟県、特に、県央地域の各業界は、苦しいなかでも、積極的に新規投資を行い、チャンスをものにする時期だと言える。もちろん、国内外の競争に敗れた企業は、無謀な投資を行なわず、撤退のための準備に取り組まなければならない。

 新潟県内でも新しいビジネスチャンスに向かって、元気のいい企業が動き出しているのを見ると、やがて、県内の景気も回復するだろうという予感がする。さあダッシュしよう。





中核都市の責任 中核都市のない西蒲原
  2004・2・3

 合併問題における中核都市の責任を、中核都市となるべき都市の市民は真剣に考えたことがあるのだろうか。合併によって、いかに自らの市町村が有利になるのかという観点ばかりが基準になって、本当に市町村民の幸せのために合併を進めていかなければならないという観点が欠落していたのではないか。

 1月27日夜のテレビニュースを見ていて、解散が決まった新潟県西蒲原郡南部3町村合併協議会のうちのひとつ、寺泊町の高橋誠町長の目に無念の涙が光っていたように見えた。寺泊町は西蒲原郡ではなく、三島郡の構成メンバーであることから、一時期、ほかの三島郡の町村と同様、長岡市との合併を模索した時期がある。

 しかし、寺泊町は、県が策定した広域市町村圏では、県央11市町村の構成メンバーでもあることから、三島郡のほかの町村が長岡市との合併の方針を決めるなか、寺泊町は、結果的に長岡市との合併を断念して、郡の異なる西蒲南部での合併を選択した。

 その結果、西蒲南部は、核となるべき吉田町が合併によるデメリットを主張し、観光で成長している岩室村が新潟市との合併を求め、それぞれ離脱。次には、3町村のうち、産業もあって、財政力が幾分はましな分水町が、主導して合併の方向を模索したが、弱小の弥彦村が、新市の名称は「弥彦市」、役場も現在の弥彦村役場を使うなど、経過はよくわからないが、中核都市となる力のない村が中核になる形で進んできた。

 分水町も、中核都市になるメリットがなければ、デメリットが多いと、最終的には合併に消極的で、ついに寺泊町が期待した分水町と寺泊町の2町合併に対しても、合併の負担に見合うメリットがないと、「解散」という結論を出すに至った。

 人口1万人以下の町村であっても、都市部と変わらない生活を送っている現状は、今後、期待できない。町村の経営は維持できなくなるというので、国は合併を奨励している。

 にもかかわらず、人口が1万人を切っている町村はもちろん、1万人を僅かに超えているという町村が、合併を断念している。そこに住む住民にとって住民自治を失うという極めて不幸な未来が予測されるのだ。

 住民エゴで、中核都市の一翼を担うことを放棄した燕市。県央地域の将来、特に西蒲の将来に暗い陰を落としていることを、燕市民は自覚しているのだろうか。

 三条市と燕市が合併して、周辺の人口1万人前後の町村とも合併することで、これまでと変わらない、あるいは、これまでより厳しくなるにしても、住民自治を含む最低限の都市生活を保証することが求められていた。それは、中核都市の市民の負担になることではあるが、産業を振興しながら、それを支えていくことが中核都市の責任であることを自覚すべきだった。

 西蒲が、散り散りになってしまい、今、燕市との合併について、どうするかの話し合いに入るという吉田町も、これで、農地の関連や、西蒲の大動脈、国道116号線沿線の開発など、さまざまな観点から、燕市、分水町などを含め、もう一度、合併相手を模索せざるを得ないだろう。

 燕市は、県央東部での、と言うより、県央地域の中核都市づくりの責任を放棄したために、逆に、吉田町にイニシアチブを取られる結果になっている。吉田町の政治家が有能であれば、地勢的に、あきらかに吉田町が西蒲の中核になる位置にあるし、中核を目指すだろう。弥彦村も寺泊町も住民自治すら失う羽目になるのだから、厳しい状況が明らかになれば合併せざるを得ないだろう。

 燕市は、今後、合併問題と広域行政において、極めて厳しい痛手を受けることになる。そのことを真剣に考えた政治家、市民はいるのかと問いたい。目先だけのことに振り回されて百年の大計を忘れた政治家ほど悲しい者はいない。燕市の政治家と燕市民に同情する。三条市民は、合併によって不利益をこうむる部分はあっても、県央東部での中核都市、県央地域の中核都市としての責任を果たす自覚が必要だ。

 それによって、周辺町村も、単に、三条市の人口が多いという理由だけでなく、三条市が、今後の都市づくりにおいて、主導的役割を果たすことを認めてくれるだろう。新市の名称も「三条市」と認めてくれることになるだろう。