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  越後ジャーナル
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失われた品々 同時に失った思い出の手がかり  2004・8・30

 自宅が床上浸水したことで、アルバムや着物、美術品、旅行先で買い求めた土産物、友人、知人からのプレゼントの品、趣味のコレクションなど、思い出のこもる品々を失った家族が多い。

 この世にひとつしかない美術品、アルバムなどの一部を除けば、物そのものは、お金を出して買い求めることができても、そこにまつわる思い出は、2度と買い求めることはできない。

 人は、思い出を、何の手がかりもなく、ふと思い出すこともあるが、多くの場合、なにか、姿、形のあるものを介して、より多く思い出す。

 着物1着には、その着物を買い求めた平和な日々、着ていった時の結婚式や、お茶会など晴れの席を思い出し、人々とのかかわりを懐かしむ。

 それほど高価なものでなくとも、ケースに収められたプレゼントの1つでも、そこには多くの感慨が込められている。

 これから人生を築いていく若い世代は、過去に、それほどこだわるものではないにしても、人生の終盤を迎えている高齢者には、思い出の込められた品々は、捨てるに捨てがたいものがあったろう。

 アルバムのなかには、今は亡き家族、親戚の人々、友人などの貴重な写真も含まれていたろう。今でこそ、デジカメ、ビデオをはじめ、身の回りには写真や映像が氾濫しているが、高齢者が生きてきた時代には、写真は貴重な人生の記録ですらあった。

 アルバムが、泥水をかぶり、開こうとした時には、写真と写真がくっついてはがれない状態だったという。また、着物を入れた桐箪笥は、泥水が入ってしまって、中の着物は泥んこ。乾き始めたら桐箪笥は、開かなくなって、打ち壊して、中の着物が泥んこだからと、家族に見せた上で、捨てたという。

 さまざまな失われた品々についての話を聞いていると、一緒に思い出も失われていくのだ。

 若者が過去にこだわりすぎるのはいかがと思うが、高齢者の多くが、思い出の中に生きることは、その過去が平和であればあるほど、残された人生をより豊かにするために、結構なことだと思う。それだけに、水害とともに失われた品々が、実は金銭に換えがたい一人一人の宝物だったのだと実感させられる。

 テレビなどで、「開運!なんでも探偵団」などというお宝鑑定番組がブームを呼び、番組では、価格の高低を鑑定しているように見せているが、それぞれの品物に込められた人生のドラマが狙いであり、見る側も爆笑しながら楽しんでいる。

 高価であるなしではなく、それぞれの品物に込められた豊かな思いでの数々が、本人や家族はもちろん、見る人をも楽しませてくれる。

 そう考えると、被災家庭が、被災者一人一人のドラマを込めた品々を、ゴミとして捨て去らねばならなかったことの無念に思い至る。

 今回の水害でどれほど多くの品々が失われたことか。





7・13水害の夜 あなたはどこで過ごしたか
  2004・8・25


 7・13水害のとき、被災者はどこにいて、どのように過ごしていたか。個々の証言を記録すれば、それだけでも、水害のすさまじさを物語る記録になる。

 僕自身のことは、既に本欄で事細かに書いてきたが、本紙の復刊を果たし、冠水した機械類の補修、作動経過もよく、ようやく、被災した事業所などを訪ねて、直接、間接に話を聞いている。

 驚くべき事実ばかりだ。事業所が嵐南地域にあって、住まいが被災したある社長さんは、正午ころには、家から水害を心配する電話があったが、午後4時頃には、「帰ってこないでほしい」という旨の電話。

 家が床上浸水するまでに時間が極めて短かったことをうかがわせる。

 それでも、社長さんは、自宅に戻ろうと、よく知っている新通川沿いの道を、真ん中を歩いて、なんとか自宅に戻ろうとしたが、胸まで浸かる水で、流れもあって、なかなか前に進めないことから、「これでは日暮れになっても家にたどり着けない。危険だ」と察して、引き返してきた。自宅は1階が水に浸かった。

 また、ある社長さんは、工場と自宅が同じ敷地内で、すべて床上浸水。社長さんは、息子さんと仕事で県外に出ていた。13日に、家から水害の電話が入って急きょ帰ったが、既に、嵐南地域は、水没していて、家には引き返せなかった。翌日夜明けを待って、水をこざいて自宅にたどり着いたが、家財も、機械、材料、仕掛品、車も、ほとんど手付かずで、泥水に浸かっていた。

 あるいは、スーパーで買い物をしていて、そのまま、逃げられなくなり、スーパーの2階で一晩過ごした市民も。

 水が多くて、会社から出られなくなって、社長さんも、男女を問わず社員と、一緒に2階で夜を過ごしたが、困ったのは2階に便所がなかったこと。それでも、夜は、電気もストップしていて暗かったので屋根の上から用を足したが、夜が明けてからは、実に困ったという、笑えない切実な実態だった。

 また、流れが速いために、歩けなくなって電信柱にしがみついていた被災者を、事務所の2階に助けあげたとか、交通指導をしていたのはいいが、指示された方向に行けば行くほど、水かさが増して、歩くのも困難になった女性が、それを見かねた男性に、道案内されて助かったとか、さまざまな話がある。

 完全に水に浸かってしまって自宅から脱出することができず、子どももいるのでボートでは危険と、自衛隊のヘリコプターの出動を要請して脱出した被災者家族。また、新聞販売店では、何が何でも新聞を読者のもとに配達するのが義務というのが身についているので、店が水に浸かっている中で、新聞を配達したとか、とにかく、被災者でなければ分からない、話がたくさんある。

 堤防の決壊した箇所に近い住宅などでは、濁流の勢いに押されて家が傾いたり、ブロック塀がバッタリと倒れ、フェンスなどがよじれているのを見ると、改めて、被災市民の恐怖が想像できる。

 語れる被災者は、積極的に体験を語り、後世の人々のために役立つ記録をとどめたいものだ。

 「あなたはそのとき、どこで一夜を過ごしたか」という問いだけでいい。被災者の数だけ異なった話があるはずだ。






夢の島出現? ハエや悪臭に配慮を
  2004・8・12


 三条競馬場跡のコース内には、7・13水害で被災した家庭、事業所から出された畳、家電製品などの家財や事務機器、商品などがうず高く積み上げられ、まるで、かつて東京湾を都民が出すゴミで埋め立てていった江東区の「夢の島」を再現しているようだ。

 泥水に浸からなければ、一物の家財、事務機器などをゴミと言うのははばかられるが、文章をわずらわしくしないためにゴミと総称する。

 加茂川水害の時のこうしたゴミは、加茂川べりの千刈野球場や、下条川の下流にある池などに埋め立てられ、そのまま、住宅団地として分譲、あるいは、市営野球場に利用している。分散したこともあるが、いま、コース内のゴミの山と比べてみると規模は比較的小さかった。

 夢の島は、まさに、高度経済成長の始まった1967年から、家庭や事業所から出るさまざまなゴミを埋め立てて造られた人口の島。今では、都立夢の島として競技場や熱帯植物園、野球場、コロシアムなどさまざまな施設が建設され、都民の憩いの場になっている。

 競馬場跡のコース内は、河川敷だから、現状では、住宅などを建てるわけにいかないし、信濃川の増水など万一の場合は、遊水地の役割を果たすだけに、そのまま埋め立てておくわけにいかないだろう。すぐにはできないだろうが、いずれは、どこかに移して埋めるなり、燃やすなりしなければならない。

 ただ、僕も在京時代、夢の島へ、会社の産業廃棄物のゴミを軽トラで運んだ経験がある。夢の島は、埋め立てている間は、名前と裏腹に、悪臭とハエなどに悩まされ、時には、炎暑が続くとゴミが自然発火して、火災を起こしさえした。

 コース内に積んだゴミが自然発火するほどのことはないだろうし、食べ物のゴミなどはほとんどないだろうからよほどましとしても、悪臭とハエなどはくれぐれも防除しなければならない。

 長期化すれば、周辺住民から苦情が起こりかねない。それでなくとも、ゴミを運搬している車が、積み過ぎか、シートを掛けていないためか、走る道路にゴミが散乱して、沿線の市民が片付けている昨今だ。





先人の左岸築堤の悲願を忘れるな

7・13水害に見舞われた嵐南地域では、災害発生から2週間が経過した今も、濁流の残していった泥が乾き、砂塵となって舞い上がるなかで、市民の懸命な復旧作業が続けられている。

 被災者は、ようやく、水に浸かって使い物にならなくなった家財や事務機、売り物にならなくなった商品を道路や空き地に積み出し、ガランとなった家やオフィス、倉庫などの壁に残された最高水位の跡を眺めながら、13日午後から14日にかけての恐怖を思い出している。

 三条市だけでも9人の尊い命と、数字にはなりにくいほどのおびただしい財産が失われた水害の爪あとは、容易に癒えることはない。

 死亡した9人の方々は悔しさを語ることはできないが、多くの被災者が体験した水害の恐怖を語り、三条市は、それを記録にとどめる努力を払わなければならないだろう。

 単に、堤防決壊箇所の仮の復旧作業が進み、道路に積み出された家財や事務機などが、トラックで運び出されたとしても、それは見かけだけの復旧作業である。

 70年に1度の大水害といっても、いつまた襲ってくるか分からない状況は何も変わっていない。

 被災者の多くは、五十嵐川を挟んで南と北の違いをまざまざと見せ付けられ、悲嘆に暮れている。

 この数日で、水害を契機に、廃業し、支店を閉じた事業所などの話を次々と聞いた。

 著しい発展がみられた嵐南地域の西大崎・西本成寺線沿線に進出した小売・サービス業の店舗は、ほとんど水に浸かり、高価な機械類が冠水。再投資に膨大な資金が必要になっている。

 官民の金融機関は、手際よく長期低利の災害融資を実施する体制をとった。

 しかし、事業を営む経営者にとって、融資を受けて進出して間もないのに、再び、それに上乗せしての借金は大きな負担になる。

 「やめられる人はまだいい」という嘆きの声を聞くにつけ、事態の深刻さを肌で感じる。

 ようやく、長い不況から脱却できるかもしれないという淡い期待を抱いた矢先の被災が、どれほど経営者の意欲を損ねているか。その地域で現場を見つめている僕には痛いほど分かる。事業所と住まいの双方が被災した経営者やその家族の悲惨はさらに深刻だ。雨露を凌ぐ家とて失い、寝る場所もない。

 アパート住まいの市民は、アパートの復旧のめどが立たなければ住む場所もない。

 現実に、そうした市民が、予想以上に多いことは、三条市が用意しようとしていた仮設住宅の戸数が不足し、急遽、増やす計画を立てたことでもうかがわれる。

 悲劇の起きている状況は誰にでも分かりやすい。しかし、徐々に明らかになってくる甚大な被害の実情を見るのは、冷静さと根気を必要とする。

 それらの積み重ねによってしか、五十嵐川の大改修の必要性を、被災しなかった市民も含め、広く訴えていくすべはないだろう。

 7・13水害の悲劇とその後の復興の軌跡をどう捉え、表現していくのか。

 このままでは、嵐南地域の市民は浮かばれない。

 「住民みな魚になってしまいます」と、先人らが、五十嵐川築堤を県に訴えて、ようやく今日の五十嵐川左岸の堤防が「新堤」として出来上がった。明治新政府の元で。

 今こそ、嵐南地域の市民は、政治の何たるかを理解し、国、県、市の力で、水害の起こらない嵐南地域にしなければならない。





納涼シーズンなのに キャンセル相次ぐ飲食業界  2004・8・4

 7・13水害で嵐南地域が大打撃を受けたが、水害を免れた嵐北、須頃地域では、好況の業種と不況の業種とで、明暗がはっきりと分かれている。

 建設業界は、三条市内ばかりか、近郷の建設業者もトラック、重機を持ち込み、泥水に浸かって使い物にならなくなり、道路に高く積み上げられた家財道具などを、旧三条競馬場コース内の臨時集積場などに運ぶ作業に追われている。

 建設不況の中で、作業員も重機、車両もフル稼働で、しばらくの間は、仕事に事欠かない。

 また、冷蔵庫、テレビ、風呂釜、エアコンの室外機など家庭用電気製品、ガス器具なども、泥水に浸かって、モーター部分などが傷み、ほとんど買い換えざるを得ない。

 畳や家具なども、同様、おびただしい量が失われた。

 大型のホームセンター、電機店などは、品切れの商品が続出。店員が「お客様に迷惑をお掛けしています」と悲鳴を上げている。

 もちろん、車などは、水に浸かって、エンジンが動かない車が多い。幹線道路をそうした車を運ぶキャリアカーが往来。水害を免れた地域のデーラーの忙しさは、駐車場に泥で汚れた車が並んでいるのでも分かる。

 こうなると、金額の多寡に関わらず、生活に欠かせない道具から順に買い揃えていかざるを得ない。

 まさに、水害特需と言っていいくらいの活況。

 逆に、嵐北、須頃地域の飲食業界は、納涼シーズンを迎え、宴会の書き入れ時にもかかわらず、今回の水害で、さまざまな団体、グループの宴会のキャンセルが相次いでいる。大きな宴会場でも、仕事がなくて、料理長はじめスタッフが自宅待機。「宴会を頼んだら、部屋はたくさんありますが、料理人が居ないので、料理人に聞いてから」という言葉が返ってくるほど。

 例年、暑い夜ともなれば、嵐南地域の市民が、五十嵐川の川風を受けながら、うそうそと橋を渡って、本寺小路に繰り出すのが、夏の風物詩のようなもの。

 しかし、本寺小路界隈のバー、スナックなどでも、「こんな時に営業をしておれない」と臨時休業する店も。

 それもそのはずで、嵐南地域の市民は、依然として、災害復旧に追われている。夜の町を飲み歩くなどという状況とは程遠い。嵐北地域の市民も、兄弟、親戚、知人が、結構、嵐南地域に住んでいるので、応援に駆けつけている。疲れ切っているうえに、被害の深刻さを見ては、とても、夜の町で酔っておれない。

 激しい競争が功を奏して、お互いに多くの客を集めている須頃地域の居酒屋だが、さすがに、水害発生後は、目に見えて客足が減っている。

 嵐南、嵐北地域からの客足が落ちているもので、広く県央地域から集客しているとはいえ、やはり、人口8万人を超える三条市のお客の占めるウェートが大きいことをうかがわせる。

 飲食業界の現状は極端な例だが、不急のサービス、商品の購入は後回しにならざるを得ない。それが心情だろう。

 水害見舞にも、さまざまな形があるが、「やる側も、もらう側もキャッシュが一番でしょう」と、酒屋さんのあきらめの声。「火事見舞には清酒」というような時代でなくなってきているのかもしれない。ましてや水害ではなおさらのこと。

 いずれにしても、災害など極端なことが起こると、必要なサービス、商品は活況を呈し、不急のサービス、商品はあと回しになる。「不況が来るね」と、サービス業者が先の心配をしていた。県央地域の夏の商戦はよほど戦略を練らないと、昨対を割り込むことになるだろう。





泥流の引いた後、白いアサガオの花が

 7・13水害の対応に追われて過ごした1週間。

 印刷機械が水に浸かって、5日間の臨時休刊に追いこまれたが、どうにか7月21日号から復刊。まだすべきことは多いが、ようやく気持ちにもゆとりが出てきた。

 21日朝、出社してすぐに、敷地内に流れ着いたゴミなどを拾い集めながら、一角に畝を作って、種をまいておいたアサガオの苗が、ようやく蔓を伸ばし始め、真っ白い一輪の花が咲いていた。 

 水害前は、山の土を盛っただけの畝は地味が肥えていないせいか、あるいは、雨が少なかったせいか、なかなか蔓が伸びなかった。

 水に浸かること3日あまり。冠水した水田の稲は葉が赤くなり始めているのに、アサガオやコスモス、ツバキなどは、むしろ元気に緑の新葉を広げるなど、元気になっている。

 どこから流れ込んできたのか油の混じった水が流れていた敷地内のことを考えると、野生の草花は実に強いし、最初に咲いたアサガオの花が白というのも、何かしら象徴的だ。

 僕も、草花のしたたかさに負けず、新しい蔓を伸ばし、美しい花を咲かせるために、努力を惜しまないぞと心の中でつぶやいた。






お詫び 7・13水害による臨時休刊

 このたびの7・13水害(新潟・福島水害)により、本紙は、7月14日付から20日付まで、1週間にわたり、臨時休刊のやむなきに至りました。

 本来、緊急の時にこそ、読者の皆様に、情報を伝達するのが新聞の使命でありながら、その役割を果たせなかったことは慙愧(ざんき)に耐えません。

 災害とはいえ、読者の皆様には、本日の紙面を通して深くお詫び申し上げます。

 13日午後時1時過ぎ、三条市諏訪1丁目地内、五十嵐川左岸が決壊。濁流は、あっと言う間に、嵐南地域を飲み込んでしまいました。

 西本成寺2丁目の本社オフィス、月岡地内の本社工場とも、床上浸水し、印刷機をはじめ、製版、印刷、折機に至るまで、印刷システムすべてが冠水。

 その上、桜木町地内の東北電力三条西変電所が、冠水、送電機能がマヒ、広い範囲で停電。本社オフィスは、停電地域でも、もっとも回復が遅かったため、数日間にわたって電話、パソコンが使用不能に。頼みの携帯電話も1日と持たず充電機能が失われ、情報機関としては手痛い打撃を受けました。

 弊社社員も、徹夜で回復の努力を払い、それぞれの機械メーカーの協力で、1日も早い復刊を目指しましたが、如何せん、早急な回復は無理で、これまで復刊が遅れてしまいました。

 記者は、臨時休刊中も、いつ掲載されるか分からない災害のニュースを追って、休みなく、取材を続けてまいりました。記者にとって、これほど耐え難いことはなかったはずですが、これも水害による休刊とあってはやむを得ず、歯を食いしばって取材を続けました。

 休刊中に取材した記事をはじめ、今後も、単に速報性のみならず、問題意識を持って、水害などの取材、執筆を続け、本号より、紙面に掲載してまいりたいと思います。

 最後に、重ねて、深くお詫び申し上げますとともに、今後とも、これまでと同様、ご愛読いただきますよう、切にお願い申し上げます。

 なお、7月分の購読料は、6月26日分から7月13日分まで、半額の525円にさせていただくことで、ご理解を賜りたいと存じます。