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  越後ジャーナル
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新市づくりにJCの力を 燕のJCOBに、三条、燕分離論  2005・1・25

 各市、各地域にある青年会議所は、40歳までの若い経営者やそれに準ずる青年たちが集まり、新しい時代に対応した地域づくりを目指し、積極的に活動している。

 その活動を通して、社会的な視野を広げ、地域、業界、企業のリーダーとなるために必要な、企画力、人をまとめていく指導力などを高めている。

 高橋一夫三条市長、高橋甚一燕市長なども、かつて青年会議所で活動してきた経験を持っている。

 ところで、燕三条青年会議所は、まだ、三条青年会議所、燕青年会議所に分かれて、三条市と燕市をはじめとする県央地域の大合併を目指して運動してきたなかで、「それほど合併を言うのなら、まず青年会議所が合併を」という市民の批判を受けながら、近い将来に合併することを前提として合併した。

 ところが、そうした燕三条青年会議所会員の期待もむなしく、三条市と燕市の合併は流産し、三条市、燕市とも、近隣町村との合併を進めることになり、燕三条青年会議所の一つの運動目標は崩れ去った。

 最近では、燕市の会員も減少しているといわれ、それを裏付けるように、トップである理事長には、三条市の会員が続いて就任している。

 また、かつて活発だったまちづくりの運動も影を潜め、もっぱら人間教育や家庭づくりなど、教育問題、環境問題などに積極的に取り組んできている。

 地域づくりについては、新三条市、新燕市を目指す、両地域の住民が動いているなかで、燕三条青年会議所としては、なかなか1つの土俵に乗れないことになってきた。

 以前にも書いた通り、両市が新市になってからも、新市同士の合併は模索していかなければならないが、当面はあり得ない。まず、新市の都市づくり基盤を確実なものにしなければならない。

 その時、将来を担う青年会議所の会員が、新市づくりに貢献しない手はない。しかし、現状では、会員が混合しているために、青年会議所として、ひとつの方向性をもって取り組むことができない。

 燕青年会議所OBのなかには、新市同士の合併を目標にしながら、当面は、昔の三条青年会議所、燕青年会議所に分かれて、それぞれの新市づくりに貢献すべきでないかという意見もある。

 特に、燕市では、燕三条青年会議所への加入が低迷している中で、このままでは、新燕市づくりのために、青年会議所に期待できないという気運さえうかがえる。

 燕三条青年会議所はそのままに、新市を対象にした新燕青年会議所は作れないかという意見もあるようだが、社団法人としては難しいというOBも。

 現役の会員では、なかなか、会議所の分離は難しい。できればOB会が音頭を取って、吉田町、分水町の若手経営者やそれに準ずる青年をも勧誘して、新しい燕青年会議所を設立し、新燕市づくりのリーダーとしての役割を果たすべきでないだろうか。

 新市づくりには、将来ビジョン、企画力や人々をまとめる力などが求められる。

 青年会議所会員こそが、その任に当たるのがふさわしいと思われる。次代の地域をリードする人材育成のためにも、そうあるべきだろう。

 各地区で商工会議所青年部が設立され、活躍しているが、商工会議所の補助金を主たる財源として運営されているのであって、独立した組織ではない。

 やはり、地域づくりには、独立した組織である青年会議所の活発な動きが期待されるのだが。

 燕三条青年会議所内にそうした危機感があるのかどうか。今後の動きを見ていきたい。






04年充実の1年 災害含め変化激しかったが
  2005・1・14

 昨年は公私ともに変化に富んだ1年だった。人生の中で、これほど懸命に生きたということを実感できた年はなかった。多分、本紙創刊の昭和53(西暦1978)年以来のことだろう。違うのは、創刊当時は、世間知らずの無鉄砲さと若さで走り抜けたし、一昨年12月の腸捻転、昨年正月の腸閉塞発症という病気からのスタートだったこと。

 再発で、4月に、入院加療。ところが、その治療ミスによって小腸に穴があき緊急外科手術。一度は、人生の岐路と考え、覚悟を決めたが、術後の経過が良好で、再び新しい人生のスタートを切った。

 仕事の面も、県央地域の政治的な新しい展開を睨んで、新燕市版の創刊という新しい構想を考えた。

 途中、7・13水害で、三条市の嵐南地域の大半と嵐北地域の一部が被災。弊社のオフィス並びに印刷工場も、床上浸水。

 創刊以来、初めて予告なしの新聞休刊に追いこまれた。本紙は5日間、週刊の加茂・田上版は、2週休刊。

 機械の復旧に、機械メーカー各社から懸命の努力をしてもらったし、一部メーカーは水害なので経費は一切サービスしますという、苦しい時の好意に感激もした。外注の協力も得ての最小限の休刊で復刊した。

 ほとんどの機械が泥水に浸かり、一時は、このまま復刊できないのでは、あるいは、多大な借金を背負うことも覚悟せざるを得なかった状況だった。

 根が楽天的なだけに、これも若い社員と一緒に、取材と弊社の復旧の両面で取り組んだ。今だから言えるが、むしろ、腹をくくって、復旧に燃えたという感じだった。

 極めて忙しかった。しかし、春に慢性化していた腸閉塞の手術をしていたので、かろうじて、水害発生の時には体力も回復しており、むしろ水害からの復旧で、術後であることを忘れて、体を動かしたのが幸いし、気分的には明るくなった。

 新燕市版の創刊計画は大幅に遅れ、その間にじっくり考えるゆとりもあったし、新燕市が再来年の3月20日スタートと決まったこともあって、計画変更。

 それまでに、広く新燕市民に、弊社のスタンスで新市づくりの情報と視点を伝えるにはどうすべきかを考え、冒険ではあるが、ひとつの方向を定めて走ることにした。

 中越大震災は、親類なども被災しているが、弊社の販売エリア外だったことで、取材面では、7・13水害の時ほど振り回されることはなかった。むしろ、高橋甚一市長の任期満了に伴う燕市長選挙、加茂市出身の泉田裕彦氏の出馬した県知事選挙などに追いまくられた。

 申年の昨年1年は、本当にせわしない1年だったし、それだけ充実した1年だったと言える。

 今年は、新三条市がスタートを切るし、弊社も、新しい視点から、新三条市、新燕市、合併せずに単独で進む加茂市、田上町などの行政を取材し、経済界も、ますます国際化したなかで、その波に乗る企業、逆に、個性を強調して、国内市場に根を張る企業など、多彩な企業の活動を取材していく。 

 もちろん、行政、産業、市民の暮らしなどすべてのベースになる文化面でも、動きを追っていく。

 1年で、スタッフが大きく成長した。変化の激しい1年だったからこそ、必死で仕事と復旧に取り組んでいるうちに実力がついたのだと思う。

 読者の皆様、スポンサー企業におかれましては、今年も一層のご支援をお願い致します。 





60代の生活派宣言 充実の1年、新たな1年

 先週の土曜日、12月25日は、仕事をしている企業も目立った。災害年となった今年の締めくくりをするためだろうか。夕刻になって、西大崎西本成寺線は、いつもの夕刻並に、国道8号線に出る車で混雑していた。

 国道8号線自体は、中越大震災の復旧工事も、来年に入ってから本格化するものは別として、なんとかめどがついてきたのだろうか。

 数日、日中はさほどでないが、夜半には、雨が霙に変わり、守門岳、粟ケ岳や白山の山並みがすっかり雪化粧し、26日には、弥彦山も白かった。

 天気予報では、しばらく冬型の気圧配置が続くようだし、27日は、湿った雪になった。本格的な冬の到来を告げるものなのか、再び温暖な気候に戻るのか。

 弊社の年末の仕事もあと数日でまとまる。せめて年内は、この程度の天候であってほしいと願う。

 僕の仕事は、もっぱら来年、予測される出来事に備えて、さまざまな準備をしておくことだ。例年2月に降るような雪かきをせざるを得ないほどの雪ならば別だが、多少の荒天でも差しつかえないが、スタッフの動きは、雪が降るのと晴れるのとでは大違い。

 ましてや、大掃除をしようという家庭では、天気であってくれれば、洗濯物の乾きも早いし、家の中の掃き掃除、拭き掃除も楽だろう。

 今年もあとわずかだから、オフィスや家庭でも新しいカレンダーに替えた。気が早いと言うが、どのみち、今年もあと4日。特別の日はない。30日は平常通り仕事だし、31日に、まさに1年を振り返り、手術したことで、むしろ健康を回復できたこと、水害に遭いながらも、仕事はまずは順調に推移したことなどに感謝すればすむ。これも、充実してきたスタッフのおかげである。

 来年は酉年。デパートの和菓子の店に、「福酉」という干支にちなんだお菓子があって、見た目も美しいので同店の銘菓とあわせて、東京の知人に送った。

 新潟県は水害、大震災などで、東京の人の目には、どのように映っているのか知れない。

 しかし、被災状況が最小限だった弊社などは、むしろ、例年以上に充実した年だったし、僕自身も、休む暇もなく走り回ることになった。

 まさに、古いものは水に流して、新しい目標に向かって進む。来年は、酉年であり、羽ばたくことのできる1年になるだろう。

 そうすべく、ペースはゆっくりではあるが、慌てることなく、手を打っている。

 いつも思うのだが、アクシデントをバネにして、次のステップを踏んで、新しいステージに進む。それは、人生の転機というものの本質だと考えている。

 災害や事故などにへこたれていたら、新しい展開などできない。思いがけない出来事こそ、人に決断を迫る。吹っ切って新しい方向性を模索する。それをテコに、さらに前に進む。

 今年は、その意味では、「1年、1年、60歳が迫る」ということをマイナスに考えていた昨年までと、開き直って「60歳代の人生をどう充実させるか」と、前向きに考え、事業や生活への意欲がますます強くなった今年とで、大きく変化した。健康の回復が最大の要因だったと思う。

 年末になって「60代の生活派宣言」などというスーパーのコピーのようなことを思い付いた。

 まさに、再来年に控えている満60歳に向けて、暮らしに根をはった生き方のためのトレーニングをさらに重ねていく覚悟だ。暮らしに無関心だった50代までの人生。そして、これから、暮らしと向き合って、なおかつ仕事も充実させていくことで、「充実の60代」を体現したい。





定年離婚、自殺など 社会問題化する団魂世代の状況

 1947年から1949年にかけて生まれた団塊の世代、その前、1943年から1946年に掛けて生まれたプレ団塊の世代、団塊の世代の後、1950年から1953年に生まれたポスト団塊の世代。

 団塊の世代というのは、ようは、第2次世界大戦で若い男子が徴兵、徴用で海外などに送られて、若い女子との結婚が少なくなり、あるいは結婚してもすぐに戦地に赴くなどで、子どもの出生の機会が減少。

 終戦で、戦地から復員してきた若い男子が、若い女子と結ばれ、どんどん出産。それが、1947年から1949年に掛けてピークとなり、堺屋太一が、「団塊の世代」と名付けて、誰もが便利なので、その世代を団塊の世代と呼び習わしてきた。

 とにかく、子どもが増えたために、保育所、小学校、中学校、あるいは高校と、建物の新増築策、教員の増員策が取られるなど、あらゆる時代の象徴的な存在となった。さまざまなブームを巻き起こしてきた。

 その団塊の世代が、今、60歳定年を間近に控え、さまざまな社会問題の元凶のように言われている。

 生産と消費の両面から日本の高度経済成長を支えてきた世代であり、核家族化を推し進め、進学教育に力を入れ、子どもたちの高学歴社会を実現。

 ところが、50歳に差しかかった頃には、「日本の経済は一流、政治は二流」とうたわれたのも嘘のように、経済も二流、三流に堕し、バブル景気の崩壊時期を見誤った場合には、その借金の付けや、企業倒産などで職場を失うなど、それまで経験したことのないジレンマに陥っている。

 マンションを含め、マイホームを実現し、子どもの数こそ少ないが、大学、大学院など高等教育に力を入れ、気付いてみたら、虎の子は減り、下手をすれば借金が残っているといった具合だ。

 退職間際になって、知らされる年金受給見込み額の少なさに唖然とし、定年退職後の再就職の道も険しく、老後の豊かな暮らしの設計が立たない。

 がむしゃらに働き、懸命に余暇をエンジョイした時のことは過去の出来事に過ぎず、借金を苦に自殺するとか、定年を待って離婚するカップルが増え、「定年離婚」の言葉すら一般に言われるなど、この年代になってもひとつの社会風潮を生み出している。男女共働きが普通の世代で、女性に経済力、生活力が付いていることも定年離婚の増えるひとつの要因とされる。

 挙句の果てに、団塊ジュニアの世代は、将来の夢を描けず、就職の道を閉ざされ、社会進出することすらきらい、その付けとして「団塊の世代は子育てに失敗した」と言われるほど。

 今、ホームページで「団塊の世代」とキーボードを打って検索すると、その言葉を含むホームページがぞろぞろと出てくる。そして、団塊の世代の育ってきた社会的な背景や今日の厳しい経済環境などが示され、また、多くの個人のホームページに、団塊の世代の嘆きが読み取れる。

 パソコンを駆使できるのも団塊の世代の特徴だ。プレ団塊の世代の中には、まだ、「ホームページと縁がない」と言って済まされる部分はあったが、団塊の世代ではほとんど、パソコンを駆使し、ホームページに親しんでいる。まだまだ新しい時代とも付き合っていかなければならない。

 団塊の世代の置かれている近未来は決して明るいものではない。豊かさの中で安穏と過ごしてきたこれまでのような生き様は許されなくなる。

 そのなかで、自らの価値観に基づく生き様によって、自己実現を図る努力をしないと、人生を振返った時に空しさを覚えることになる。