暁星高校・現場の姿ありありと 被災生徒の体験文集刊行 2005・3・18
加茂暁星高校は、同校に通う生徒の中で、7・13水害に遭った生徒たち、あるいは被災地でボランティア活動に参加した生徒たちの体験記録を、「7・13水害―被災体験文集」として出版した。
後書きに代わる「被災体験文集のできるまで」によると、全校生徒の5%にあたる46人の生徒が床上浸水を体験、全員が嵐南地区に住んでいる生徒だった。
しかし、2学期が始まってからも、あまり体験を語る被災生徒の姿は見られなかった。先生が「どうだった?」と聞いても「大変だった」と言葉少なに、笑顔を見せる生徒が多かった。少し突っ込んで聞くと「話しても、どうせ分かってもらえない」「経験してない人には、絶対伝わらないから、言いたくない」という言葉が返ってきたという。
こうしたなかで、同校国語科では、被災した生徒に体験文集の作成を提案、12人の生徒が呼び掛けに応えて体験記録を提出。書き始めたが完成をみなかった生徒、その後も長く仮設住宅などに住んでいて、体験文を書けなかった生徒もいた。
もちろん、被災した生徒も、すべてを体験記録として書ききっているわけではなく、ここに記録できなかったこともあったという。
災害後のこととして「落ち着いて勉強なんか、とてもできなかった」「両親に相談したいことがあっても話す時間が取れなかった」など、被災生徒にとっては厳しい夏休みになったようだ。
被災体験に加え、生徒会の役員などが、ボランティア活動に参加し、学園祭でチャリティーバザーを行って、生徒や父兄など来校者が協力してくれた体験なども合わせて掲載している。
さて、被災生徒12人の被災記録全編を一気に読んだ。比較的被害は軽微だったが、被災地にオフィスがある弊社。僕としては、7・13水害の経過は克明に記憶しているし、ボートやヘリによる救済状況なども見つめてきているが、学校が休校になり、堤防が決壊した時刻に、家にいた生徒の体験、目撃した光景を描いている生徒の記録は、現場に居なければ書けないリアリティーがある。
特に、弊社以上に被害の大きかった地域、例えば五十嵐川の堤防が決壊した諏訪地域に住んでいる生徒や決壊個所から近い月岡、曲渕地域の生徒、海抜の低い条南町などに住む生徒の記録には胸を打たれる。
家が決壊した堤防の正面に家があるという生徒は「外を見ると、近くの神社の鳥居が流されていました。車も流されていきました。大きな木でさえ、流されていきました。それからまもなくすると、1階の窓ガラスが割れる音がし始めました。泥水の激流の力で、ガラスが割れているのです。家の中に泥水が、どんどん流れ込んできます。その流れる音が、しだいに大きくなり、僕も弟も恐怖感が増してきました」。この生徒は、両親はいつもの通り仕事に行っていて、洪水に阻まれて家に戻れず、弟と2人きりだった。
避難所に避難した生徒は、「救援物資が届きました。避難している人たちみんなで、たくさんのダンボールをリレーして運び込みました。ところが、運び終わっていざ配られる時になると、人間は醜いもので食糧や毛布の奪い合いで、まるで戦争のようでした。一生懸命ダンボールを運んだ人の中にも、何も取れなかった人もいました。さすがに、2回目の物資配布の時には、整理券が配られ、子どもとお年寄りを優先することになりました」と、冷静に観察している。そして「物資争いの時の人の醜さ、近所の人がくれたおにぎりのありがたさ、人間とはこういうものなのだと思いました。いつも他人事として見ていた被災地の映像も、これからはきっと自分の体験を思い起こしながら見ることになると思います」と、人間的な成長の糧にしている。
決壊個所から500メートルほどのところにある家で被災した生徒は「消防の人たちが『切れた!』と叫びながら、ただならぬ様子で五十嵐川のほうに向かって走っていきました。決壊の瞬間です。―中略―しばらく外の様子を眺めて、状況が理解できたとき、私は『2階まで泥水が来たら、どうしよう。このまま電気もなく真っ暗な中で家にいるのだろうか。これからどうすればいいのか。』といろいろなことが頭の中を駆け巡り、とても冷静ではいられませんでした」と恐怖の体験を回想している。
条南町に住む生徒は、「本当に、生命も危ない状態でした。母はそれから、首まで泥につかりながらも、なんとか歩いて本成寺に避難しました。この時、もし家に帰ろうとしても、流れが早い上に、家の前には母の身長より深い水があったので、とても近づくことができなかったでしょう」と、記録している。
ここに、12人の体験記録をすべて紹介できないし、わずか数行の抜書きでしかないが、飾らない文章であるだけに、生徒たちの目から見た7・13水害の状況が本紙の読者にも伝わるものと思う。
ボランティア活動に携わった生徒の感想も、被災体験と対になっていて読み応えがある。
非売品で、多くの市民に読んで頂けないのが残念だ。
また、生徒の体験が、これだけのリアリティーをもって、被災現場を浮き彫りにしているのだから、大人の被災体験記録も刊行されてしかるべきだと考えるのだが。被災者は、ただ、復興とその後の生活再建に疲れ切って、それどころの話ではないのだろうか。

高橋一夫市長、病に倒れる 三条市政の健全化に邁進
病気知らずで、激務をこなしてきた高橋一夫三条市長が、2月14日未明、救急車で新潟市民病院に搬送されたというニュースは、三条市民はもとより、近隣市町村民にまで衝撃となって広まった。
高橋市長が、平成11年4月に三条市長に初当選、就任したときには、三条市では、行財政改革、合併問題、月ヶ岡養護学校保護者らの反対がある火葬場建設など歴史に残る大きな政治課題が横たわっていた。
高橋市長は、1期、4年で行財政改革や合併問題に道筋をつけて、引退することにしていたが、合併問題が二転三転する中で任期中に目処が立たず、最終的には三条市と栄町、下田村の3市町村が合併し、新「三条市」が誕生するまでということで昨年4月に、任期満了に伴い、2期目再出馬。無投票当選を果たした。
ところが、まさに降って湧いたような7・13水害に見舞われ、9人の尊い命、巨額の市民の財産が失われ、行政責任を問われるなかで、時の市長の責任として、五十嵐川改修の方向付けが固まるまでということで、衆目の見るところ、合併後の市長選に出馬するものと見られていた。
五十嵐川改修の大事業と取り組む中で、一方では、小泉内閣の構造改革に対応して、三条市の行財政改革を進めなければならず、17年度からスタートさせる計画だった三竹保育所の民営化も、水害で保護者への説明が遅れたという理由で、1年遅らせざるを得なくなった。
新年度予算の市長査定はすでに終えている。合併が5月1日からということで、平成17年度の三条市の予算案は4、5月分だけだし、合併後については暫定予算で、人件費など経常経費を盛り込むだけ。政策的な事業予算は、合併によって、改めて行われる市長選挙で当選した市長が中心になって組むことになっている。
これからは一部事務組合などの対応。
新市のスタートに備えて、合併する3市町村で構成している一部事務組合などはスムースに移行できるが、合併反対の加茂市、合併できなかった田上町などと構成している水道企業団などでは、議員定数割合など、利害得失も絡む問題の調整が必要だし、多くの課題が出てきている。
戦後の政治史を見ても三条市長の負担の大きさは尋常でない。戦後の初代民選市長土田治五郎市長も、任期半ばで倒れたし、高野亀太郎市長は、自らの会社が破産するということで辞任、渡辺常世市長も、高齢をおして出たこともあって、市議会対策で行き詰まり倒れた。5大事業を掲げて稲村稔夫革新市長を破った滝沢賢太郎市長も、ガンのため、任期中に亡くなった。
高橋市長は、長谷川長二郎市長を破って当選したが、1期、4年で辞める覚悟で、当初から、市民や市職員の反発のあることを知りながら、あえて、行政サービスの圧縮、職員給与の見直し、公共事業の一般競争入札実施など、大胆な改革を断行してきた。それだけでも、市民の人気ばかり気にする普通の首長にはできないことで、プレッシャーは強かったろう。
高橋市長の政治姿勢は、強硬ではあるが、私利私欲に走らず、ひたすら、三条市政の行財政改革実現を目指してきたことで、三条市民はもとより、栄町、下田村の町村民、あるいは、合併が実現しなかった燕市民にも信頼を確立してきた。
近隣市町村民に信頼される三条市政を目指して、まさに渾身の努力を払ってきた。
高橋市長は、市長になる以前は、1年を通して、早朝、五十嵐川の堤防を散歩し、散歩の後、入浴していた。極度な冷暖房を嫌い、寒ければ服を重ね着し、暑ければシャツになるなど、できるだけ健康に留意していた。最近は散歩もできなかったようだが。
市長職の激務を考えれば、過労ではあろうが、まさか、今、この大事な時期に病気で倒れるなどということを誰も考えていなかったろう。
15日、提出された医師の診断書によれば、「特発的食道破裂と縦隔炎で、入院治療期間1カ月間」。1日も早く全快し、市長として復帰してほしいという声が強い。
ただ、政治には1日の休みもない。
健康な肉体をも蝕むほど市長の職務は激務だ。五十嵐川改修など大事業が控えているだけに、無理をせず、適任の後継者に市長のポストをバトンタッチし、療養に専念、健康の回復を期すのも、高橋一夫氏の個人の生涯を考えれば当然許されるべきことだ。

食事と料理の違い分かる 男性も食事が作れないと困る時代に
最近テレビで、70代の男性がホームパーティで、奥さんの料理の手伝いをする番組を見た。それまで、全く台所に立ったことのない男性であり、包丁でサトイモの皮をむくのすら一苦労。そのはずだ、家でも、外でも、出された物を食べる生活を70年近くも続けてきて、急に台所に立っても、何もできないのが普通。
しかし、高齢社会の主役になる団塊の世代にとっては、食事を作ることは大きな課題になる。
男性より女性の平均寿命は長い。しかし、健康を維持できるかどうかは別の話だ。仮に、奥さんが、ご主人より早く倒れたらと考えると、自分の食事くらいは自分で作れるようになっていないと、大変困ることになる。
今の若い世代は、大学時代など親元を離れて寮生活、下宿生活などをしているから、内容はともかく、1人暮らしはできるだろう。しかし、若いときに1人暮らしの経験、食事を作ったことのない男性にとっては、食事作りは未知なる世界である。
もちろん、作らなければいけない状況になれば、作る。それが人間だから、自分の食べる分くらいは何とか自分で作れるのだろうが。
僕自身、自分で三度三度食事を作るようになって、自分の食べる食事と料理の違いをはっきり理解することができた。
三度三度の食事は、炊く、煮る、焼く、炒める、蒸す、おろすなどということができれば、後は食材を何にするか選ぶだけでいい。人に食べさせるのでないから、自分の好きな素材で、味付けも自分好みでいい。栄養バランスなども習った記憶はあるが、覚えていないから、適当に素材を変えている。
ご飯を炊くのは、炊飯器だから、米をとぎ、水加減を見て、スイッチを入れれば、後は自動で好みのままになる。
煮ることは、汁物などや煮物を作るときに、どうしても自分でしなければならない幾つかの作業がある。
ダシを何にするか。僕は「日高昆布」や、「かつお節」などにしている。初めはかつお節のパックにしていたが、1人分だと、大きすぎ、味が濃くなるし、不経済なので、今は、削りかつおを煮出して、網ですくい取るようにしている。そこに料理用酒を加える。
後は、汁物の実を何にするかだけ。もちろん、ダイコンやニンジン、サトイモなどの皮むきといった作業が伴う。味噌、醤油、あるいは塩など最後に調味料を入れる。
煮物は、汁物同様に下地を作って後は何を入れるか。生魚などは、お湯が沸いてから入れると臭みがないというし、時には、さっと湯がいて、臭みなどを取ってから使うこともある。野菜は何でも入れる。入れて失敗したら、反省する。
炒め物は、フライパンに油をひいて、あらかじめ用意しておいた野菜や肉などの具を入れて炒める。油は、サラダ油、ゴマ油、あるいはバターなどで、サラダ油などはあまり多く入れないようにしている。焦げ付かないようにしさえすればいい。もちろん、ここでも料理用酒や、カキから作ったオイスターソースなどを加えると味に深みが出る。
油を使って揚げる料理は作ったことがないし、油の扱いに慣れていないから、今のところテンプラやカツなどは自分で作らない。
人に食べさせる料理なら、素材をいろいろに加工しておいしく作るのだろうが、そこまでやれるようになるにはよほどの覚悟で料理を覚えなければならない。僕の今の状況と残された人生では無理。
テレビ、ラジオなどで、さまざまな料理番組があるが、料理番組や、あるいは雑誌のレシピなどを見て、料理しようとすると、とても、材料の種類がたくさんいるし、1人分を作るのにはムダが多い。材料をそろえるのを考えただけで、いやになる。
とにかく、毎日、作って食べなければならないのだから、あまり考えずに、食べられないほどまずい食事にならないようにすることが長続きするコツと考えている。
「忙しいだろう」と聞く人がいる。もちろん、今まで全くしたことがない暮らしだから、それに比べて今は忙しい。本を読む時間が欲しいほどだ。しかし、自分で食事を作り続けて得たものも多い。むしろ、今まで以上に生き生きと過ごしている。毎日の食事を自分で作るということには大きな意味がある。
第一、初めのころは、スーパーに行っても、刺身だとか、すしだとか、加工した惣菜など、手のかからない食材を買っていたのに、今は、素材を買うことが多くなった。変われば変わるものだと感じている。

歴史と文化の町、分水町 合併後は新燕市であり、より身近に
合併した後に生まれる新しい燕市を、できるだけ早く理解するために、これまで、吉田町や、その隣接地になる岩室村、弥彦村などを巡り、いよいよ、分水町に入った。
1年ほど前の梅の咲く時期に、分水町の指定文化財地蔵堂願王閣や常昌寺薬医門などを見学したが、それ以来、久しく分水町を訪ねていなかった。
分水町は、昭和29年の昭和の大合併で、地蔵堂町と国上村、島上村が合併してできた新しい町。
歴史に関心を持つ人なら、分水町の笈ケ島が中世戦国時代には、三条城城将山吉氏の家臣の領地だったことを知っている。
もちろん当時は、大川津の川湊はあったが、大河津分水路はなかったわけで、信濃川本流(東川)と西川の分流の線で、山吉氏の支配地は終わっている。
国上山は、現在、国上寺や良寛ゆかりの五合庵などで知られるが、ここに中世戦国時代、山城があったと郷土史研究家が指摘している。
須頃地域から分水町の中核である地蔵堂まで13キロメートルほど。燕市大曲から、東にまっすぐに走り、物流センターの南側の水田をさらに東へ走って、国道116号線と交差、吉田町と分水町の境目の道をしばらく走り西川を渡って左折すると、分水町役場に近い。
地蔵堂の市街地は、これでも大火などで道路が拡幅されたので広くなっていると言うが、実に狭い道が入り組んでいて、いかにも中世戦国時代から開けていた古い町並みだという印象を受ける。
産業は、北越工業、永田精機などの地元企業、松下電工などの誘致企業などとその関連の企業が多い。
もともと、信濃川と西川などの分流する地点の川湊として栄えた地域だけに、商業的な機能も備えている。
ただ、国道116号線沿いには、新しい商業施設が進出しているが、古くからの町並みと関連性がないのは、ほかの市町村と同じだ。
分水町といえば、県央地域でも有数の観光地。弥彦村、岩室村は、温泉地として売り出したが、分水町は、越後一ノ宮の弥彦神社と縁が深いとされる古刹国上寺、良寛の住んだ五合庵、それに大河津分水路の堤防に植えられたソメイヨシノとおいらん道中など、イベントで売り出している。
大河津分水の信濃川側の洗堰も新しくなり、今後は、分水路の整備が国営事業で行われる。
地球温暖化による世界的な異常気象で、集中豪雨のスケールが大きくなっている中で、信濃川、魚野川など上流部の都市開発も進み、道路などの舗装化で出水が早くなっている。
分水路の拡幅整備を行わなければ、分水路の溢水も有りうるという話。もちろん、地元住民は、分水路が危険になれば、信濃川の方に水を多く流すから大丈夫と言っているが、信濃川も危険になれば、そうとばかりも言っておれないだろう。
歴史と文化の町であり、蒲原平野を洪水から守り続けている分水町が、合併によって燕市になる。
時間距離にして須頃地域から10分ちょっと。燕市民は同じ市民として、三条市民も隣の燕市の一員として、これまで以上に身近に分水町民を見ていくことになる。
さらに、分水町の歴史と文化、産業について学んでいかなければならない。

いよいよ市長査定の時期 各市町村の新年度予算はどうなる 2005・3・9
平成17年度の予算編成も、いよいよ首長査定の段階を迎え、それぞれの首長の施政方針に基づいて、最後の決断が下されようとしている。
増え続ける国債残高を何とか抑制し、国家財政の破綻を回避しようとする政府、地方交付税、国庫補助金などの減額、少子高齢社会の福祉予算の増加などで、厳しい財政運営を迫られている都道府県、市町村などの地方自治体。
今後、ますます深刻化する少子高齢社会。切り詰められた地方交付税、国庫補助金などで、合併する、しないも含めて、首長の考え方が、それぞれの市町村の新年度予算にどう反映するのか。
県央地域の市町村は、合併の進捗状況が異なり、単純に比較できないが、合併しない加茂市、当面合併できない田上町などは、かつてない厳しい予算編成になる。
ただ、加茂市の小池清彦市長は、「合併すると地方交付税が減らされ苦しくなる」という持論を展開してきただけに、苦しくても苦しいと言えず、まだ、体操施設などの箱物を建てる政策を続けている。
実は、既存の建築物の修理費もない状況。新庁舎が汚れようが、加茂市産業センターの車寄せの屋根が腐ろうが、そのまま。なり振りかまわず、自らの掲げる体操施設の建設、第3平成園の建設に向けてひた走る。
三条市では、かつて、財政再建団体に転落した経験があり、そのときは、政策的な事業を行う資金がないのだから、とにかく、笠堀ダム建設など国、県の事業費を誘導する大きなプロジェクトの推進にやっきになった。
今は、災害復興でもなければ、国、県も大きなプロジェクトを推進できる状況にないだけに、小池市長は、とにかく、県の予算で、仕事を進めることに汲々としている。それも方法だ。
田上町は、佐藤邦義町長が、合併ができない時点で、すべての建設的な事業を抑制し、町民にも、負担増、サービスの削減を訴えて、理解を取り付け、新年度予算編成に取り組む。
周辺市町村に、合併しない小規模な町村の財政運営の厳しさを知らしめる結果になった。
もっとも、人口3万人余の加茂市も、もともと、地域の産業が低迷し、地方交付税への依存度が高かっただけに、厳しさは田上町同様だが、小池市長が、ひた隠しにして、苦しい財政運営を続けているだけ。
三条市、栄町、下田村は、合併が5月1日からとあって、新年度予算は、単独と、合併市の暫定予算の2段構えになる。合併後の本予算は新市長が選挙で選ばれた後に編成する。これまでの予算、決算と比較しにくい。
少子高齢社会への対応を、結果的に最小限の3市町村合併で対処しなければならず、その上、三条市、下田村とも7・13水害で大きな打撃を受け、河川改修と、それに伴う道路、橋梁整備に取り組まなければならない。
単純に合併すればよくなるというのでなく、この困難な時期に、合併した効果をどのように発揮していくのかが問われている。
燕市、吉田町、分水町は、合併の目標が来年3月20日なので、新年度予算は、ほとんど例年通りに組める。
燕市も市営ガス事業を民間企業に売却し、その売却代金を合併前にどのように使うのか。売却時期が6月頃ということから、売却代金は、当初予算に計上されず、補正予算になるのだろうが、紐の付いていない最も大きな財源になるだろう。
いずれにしても、合併した市町村と、しない市町村の行財政運営の差が、今後、市政に大きく現れてくることだけは確か。
少子高齢社会の深刻な事態をどのように受け止めて、健全な市町村運営を果たしていくのか。各市町村の市民にとって、他人事ではない。

新しいメディアの構築 県央地域のネットワークづくり 2005・3・3
新燕市で新しいメディアを立ち上げようと、連日、燕市、吉田町の若手経営者を訪ねている。
一方で、硬くなりがちな頭を少しでも和らげようと、いろんな物を見つめ直している。頭は連日、快い発熱状態である。
このような状態は、本紙創刊の時、販売エリアを燕市、栄町などに拡大した時、情報誌「PALGE(ぱるじぇ)」を創刊した時にも味わえなかった感覚だ。原因は幾つかある。
本紙を創刊した時は、満31歳で、創刊のために費やしたエネルギーは今以上だったが、人よりは「硬い」と言われた僕の頭も、まだ、初めて出会う人たちの考え、新しい状況を受け入れることが楽しいだけで、自然のうちにできた。それと、出会う人のほとんどが、人生の先輩だったから、情報収集は、もっぱら聞くことだった。それと、知名度がなかったから、出会う人の数も徐々に増やしていけばよかったからスピードがゆるかった。
販売エリアを拡大した時には、当然、今まで、話すことも、出会うことさえなかった人々との出会いが始まったのだが、情報収集の面、営業面で、地域的な広がりを持つだけで、基本的なスタンスは変わらなかったから、大きな変化ではなかった。この面でも、ほとんど急ぐことはなかった。
「PALGE」の創刊の際は、タウン誌の草創期で、地元でも、「3号雑誌」が誕生した時期だが、やはり、こちらは、政治、経済、文化中心の本紙と編集内容を変えざるを得ず、あまり、それまで目を通さなかった若者向けや女性向けの雑誌に、心して、目を通した時期があった。
結局、20代、30代を相手にした情報誌としてスタートしたが、直接編集することはなく、20代の記者が編集、その後、月刊化によって、現在のスポンサーシップによる情報誌にスタイルが変わり、定着した。
この前に、「ラフ」という雑誌を創刊したが、最初の編集会議を当社のオフィスで開いた程度で、これは、現在燕市議会議員をしているタナカ・キンさんが、若いメンバーの中心になって、若い人たち向けの雑誌としてしばらく続けたようだ。
20代、30代というのは、感性が鋭く、わずかの差異にも、妥協がない年代でもあるから、今から思うと、僕は30代でしかないのに、20代の世代を、よきにつけ、あしきにつけ、「若い」という印象で受け止めていた。今思えば、20代も、30代も同じ世代のように思えたりするが。
好奇心も旺盛で、新しい人、新しい状況との出会いを楽しんでいた。
加茂・田上版の創刊は、平成8年。週刊紙だった本紙を週5回発行の準日刊化に漕ぎ着け、既に、さまざまな体験をしてきた後でもあった。本紙の編集も若い記者にある程度任せられるようになっていたから、新天地に飛び込むというほどの気負いはなかったが、それでも、人脈がない中で、その地域のコミュニティーの媒体を立ち上げるのは容易でなかった。
政界、業界、文化団体の主な状況を把握しながら、僕の個性にあった人々とのネットワークづくりを心がけた。当初、全面的に編集、営業を任せようと思った地元採用の記者が半年ほどでリタイヤしたので、結局、現在の廣川和子記者にバトンタッチするまでに、8年の歳月を要した。現在も毎週金曜日発行の週刊紙のままだが、地元新聞販売店の協力があって、加茂市で唯一の地元紙として継続している。
こうした新たな挑戦を繰り返しながら、日々努力してきているが、県央地域の見識あるメディアづくりは、まだ、志半ば。
それこそ、本紙創刊の以前から数えると30年もの長い間、燕市民から、燕市の新聞を創刊しないかと声を掛けられてきた。
うれしいことだが、燕市の新聞は燕市民でと、当時は、燕市民による新聞、雑誌として、燕新聞、燕新報、一時期だったが雑誌燕ジャーナルなどがあり、その後、燕スポーツ、ロバの耳などが生まれるなど、交代が激しかったが、メディアの流れを冷静に見つめてきた。
今、燕市は三条市との合併を断念して、吉田町、分水町と合併して、新燕市を築くことになった。三条市が、栄町、下田村と合併するのとは少し意味合いが違う。
吉田町は、国道116号線を中心に開け、大通川流域の工業団地群を除くと、燕市との交流は決して濃くない。ましてや分水町となると、小池地区が隣接地で、機械加工など産業的にも似ている部分もあるが、全市的には、ほとんど交流がない。
新燕市をエリアとする地元のメディアはない。新しい燕市の土台を築く最重要時期に、この地域のメディアが存在しないことは、大きな禍根を残す。
やはり、これまで燕市民から長い間、請われてきた燕市の新聞を、今、新燕市の形の中で立ち上げ、若手記者に継承していく必要性がある。
そう考えながら、新しいメディアを築くためのネットワークを構築するために日々、奔走している。
新三条市の市民には、少し足が遠のいているが、お許し願いたい。
この新燕市向けの新しいメディアを成功させて、次に、新三条市の新しいメディアづくりに着手したい。
その間に、並行して、インターネットによる速報性のある情報の提供を目指す。現在の弊社のホームページは、地域の情報を販売エリア外の市民に読んでもらえるようにという目的で、本紙掲載から1週間ほど遅らせて記事掲載している。速報性第一のメール配信は、専門のスタッフを一人つけるだけで十分だが、それは急ぐ必要のないことだ。若い世代がやがて中高年になり、ほとんどの市民が、毎日、パソコンで地域情報を確認する時代がやがてくるのだから。
要は、弊社の情報収集力を強化しながら、メディアを総合した形で、県央地域の地域ネットワークづくりを果たし、よりよい情報、建設的な論評を提供するシステムを構築することが僕の仕事である。

支出が収入を大きくオーバー 初めての家計簿に驚くことばかり
初めて、家計というものを自らの手でやりくっている。
勤め人だった父が、家計の大半をやりくっていたのを見ながら育った僕は、男は家計などにとらわれていては仕事にならないと、全く、家計のやりくりに手を染めなかった。
正しく言えば、サラリーマンだった独身時代には、自分の給料で暮らしていたが、会社の下宿住まいで、今のように家賃からガス、水道、電気料金などすべての経費を負担しているわけでなく、交際費、あるいは慶弔費などもほとんどなかったのだから、小遣帳程度のものだった。
しかし、昨年5月から、決まったひと月の給料で、総ての生活費を賄わなければならない家計をやりくることになり、家計簿を付けてみて驚いた。代表取締役とはいえ、いわゆるサラリーマンと同様の月々決まった収入で、次々と発生する出費に対応しなければならない家計は極めて厳しいものがある。
会社の経理は、収入と支出のバランスを見ながら、収入が不足すれば、増収を図る手立てをして、支出を減らすことに腐心する。
数字に弱い僕だから、なかなかうまくいかないが、とにかく時代を見ながら、まめに働いていればなんとかなった。
しかし、給料は、代表取締役であっても、月々決められており、簡単に努力したから増やせるというものでもない。サラリーマンと同様だ。サラリーマンと違い、ボーナスというものがない。もちろん、利益の上がっている企業なら役員報酬というものがあるが、小規模零細企業であってみれば、簡単ではない。
決められた収入に基づいて、次々と発生してくる出費に対応していく。昔から「入るを量って、出ずるを制する」という。言葉は知っていたが、実際にわずかな金額の給料で、一家の出費を賄うというのは、難しいものだと実感している。
まだ、家計簿を付けて9カ月目。1年を経過していないから、家計を預かる者にとっては当然のこととしても、初めて経験する僕にとっては、まさに「予定外の出費」となる、さまざまな経費が毎月のように生じてくる。
昨年春は、須頃に居を構えるための特別出費と、手術などに要した医療費など特別の出費が多かった。
9カ月ほどを経過して、ようやく暮らしも落ち着いてきた。これからは、本格的な予算生活を始めなければならない。それにしても、小さい金額を扱う家計というのは、どうにもやりくりがきかない。
常の備えがないと、大きな出費が起きれば、工面の仕様がない。しかし、特別の出費を除いても、毎月の収支がわずかの黒字と、わずかの赤字を繰り返しているのだから、備えどころではない。
けばけばしいサラリーローンの看板を冷ややかな目で見てきた僕だが、よほどしっかりと予算生活を続けていかなければ、金利は超高くても、即座にまとまった金を手にできるサラリーローンの誘惑に負ける事態に陥るのだということが実感できた。
4月末をもって、1年の家計の決算をしてみたいと思うが、怖くもある。
もちろん、先にも述べたように、新生活を始めることによる出費も大きく、支出が収入を大きく上回っているのは、預金の減少で分かる。
それにしても、給料日の来るのが遅いこと。仕事をしていると、やるべき仕事が順調に進んでいても、時間の過ぎるのが速いと思うのに、給料日の来るのが遅いと思うのは、内部矛盾であるのだろうか。

