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人口減対策=活力ある産業創造 条件整備に新潟県政は無力を実感
 2007・8・29

 27日の月曜日、朝8時過ぎ家を出て、高速道を使わず県庁に着いたのが、午前9時ちょっと過ぎ。新潟市街地に入るころには通勤時間帯を外れるので予想していたより混雑はない。

 県庁には、新潟日報を含む中央紙、テレビ局などの記者クラブと、ローカル紙の記者クラブがあるが、僕は記者クラブに入っていないし、ふらりと取材に行くだけで、いまさら入る気もない。一県民としての視線も大事だ。

 もちろん記者専用駐車場は使えないから、毎回、一般駐車場を使う。無断駐車を避けるために、駐車場の受付で、黄色の大小二枚の紙を受け取る。小さい方は、駐車許可証で、車の見えるところに置いておく。大きい方の紙は、用件のある窓口で、証明の印鑑をもらってくる。

 県知事部局の記者会見は、何でも、2つの記者クラブで別々に行うとかで、僕はお呼びでない。どうせ、県知事部局の宣伝したいことを聞く程度だろうから用もない。

 所期の目的は、県政における県央地域の置かれている立場を知ること、次が県議会議員の姿を目の当たりにすること。

 国会のように、新聞、テレビなどで厳しく追及されることもなく、市町村のように、住民から直接、監視されることもない。それでいて、地域に戻ると「政治家先生」で通る節がある。

 都道府県が中2階といわれて、やたら、税金だけ取るが県民には何をしているか分からない。それを審議している県議はいっそう分かりにくい。それが一般県民の偽らざる感覚。

 もちろん、市町村の要望を聞くなり、建設業を筆頭とする産業界や何か県の許認可事項の必要な事柄では便宜を図るなど、そのつど、斡旋的な役割は果たしているのだろう。それらは、一般県民には関わりのない内容だ。

 さて、28日は、県議会の地域力向上・広域行政対策特別委員会で、人口が減少し続けている現状をなんとか打開しようという目的で、諸政策を審議する場。

 委員会の取材は、常任委員会を含めても初めてのこと。本会議同様、これまた県庁本館と並んでいる別棟の県議会庁舎の事務局で、いちいち、用意された取材許可証に必要事項を書き込んで、3階第2委員会室に入る。

 市役所の委員会室の2倍以上はあろうか。委員の数は、議長、ないし副議長を含めて13人。市議会の特別委員会と変わらない数。ところが、県知事、副知事などは出席しないが、控えている職員はやたらと多い。県民生活・環境部、総務管理部、産業労働観光部の3つの部の関係者なのだが、なぜこれほどいるのか。結局、県外に出て行く人が多いなど人口減少の現状、Uターン、Iターンを含む若者の定住対策、団塊世代の回帰対策、仕事があるか、所得が関東より低いなどが心配という若者に対して、能力を生かすことができる「働く場」を確保するなどの取り組みについて説明する時間も含めて2時間あまりの間に、説明、答弁に立ったのは部課長クラスのみ。この日たまたま必要でなかっただけで、必要なときもあるのだろうか、いや多分、いつもこの通りなのだろう。「時間の無駄だ」と内心思った。

 人口減の対策の方は、別途詳しく書くとして、実にお粗末。かつて新潟県の人口が増えてきたのは、出産が死亡を上回る自然増が多かったからで、決して、他の都道府県から流入してくる人口が、新潟県から流出していく数を上回っていたわけでない。ただ、出産の数が大幅に減り、死亡が増加傾向にあるだけ。

 にもかかわらず、相変わらず、県外流出対策を繰りごとのように述べているのだ。創造性など何もない。結論は、新潟県内で創造性のある事業を興し、世界に向けて発展していく意欲のある経営者が育っていないことが問題なのに。その条件整備をするには県はあまりにも力が弱い。特別委員会の審議を見ていても、それが実感だ






7・13水害の傷癒えず 表面的な復興と裏腹に 2007・07・13

 めでたいことであれば、「3周年」と、祝うべきところだが、7・13水害から3年では、嵐北の一部地域も含む、嵐南地区の被災市民それぞれの3年を想像するだけでおぞましくなる。

 水害の真っ最中は、ただ、目の前の濁流を恐れて逃れた人もあり、逃げ遅れて亡くなった人もあった。あるいは、初めはそれほどではなかったが、時間の経過と共に水嵩が増し、ついには背も立たないほどになった本成寺の輪中地域などの低地でも犠牲者が出た。

 命こそ失わなかったがケガをした人、汚れた水がもとで病気になった人、失った家や財産に呆然とし、その後、必死で再建の道を歩み始めたが、あまりにも大きな痛手で、経済的に行き詰まった人とか、あるいは精神的なダメージを受けた人など、いまもさまざまに後遺症が見られる。

 嵐南地区を歩くと、表通りは、改修に伴う移転改築も含め、新しく建築された家や事業所が多い反面、それでなくとも人口の減少、狭い路地など不便で郊外に転居していくために空き地が目立っていた住宅密集地には、草生す空き地がさらに増えている。

 被災市民1人1人に尋ねれば、人には言えないほどのドラマがあるはずだし、新聞記者としてドキュメンタリーも組めるほどだろう。しかし、事業所だけにしろ、自らも被災し、これまでの3年間、必死で再建の道を歩んできた1人として、とても、人の不幸をえぐり出すようなインタビューはできない。

 これまでも、表面的な災害からの復旧が進む中で、本欄で、被災者の受けた傷の深さを案じ、警鐘を鳴らしてきた。まさに、「水害によって人生が変わってしまった」という被災者がどれほど多いことか。

 もちろん、癒すことのできない傷の深さに、同情してみても救う手立てはなく、被災者が、希望を失わず、立ち上がるしかなかったのだが、それにも限界がある。

 被災者1人1人が、自らの被災、復興の人生を、記憶にとどめながら、厳しい現実を一歩、一歩と前に進むしかない。

 五十嵐川の改修の姿を見ながら、そのダイナミックさに驚くばかりだし、改修に伴い、住む場所を離れた市民のいることも忘れることはできないが、それも、工事が完了してしまえば、やがて市民から忘れ去られることだろう。

 20、30年もすれば、水害の話自体が昔話になり、それを語る人が、「古い」と言って片付けられる時期も来る。あの忌まわしい第2次世界大戦でさえ、もはや語る人とて少なくなっているのだから。

 しかし、これから10年、20年を経てもまだ傷が癒えず、経済的な復興、心の再生の重荷を背負っている被災者も少なくないだろう。

 戦争は国民全員が犠牲になったのに比べ、水害などは、それが局部的であるがゆえに、被災の深刻さが広く認識されることはなく、極めて個人的な問題として、時間の経過のなかで処理されていく点に課題がある。

 三条市の長い歴史の中で、明治の大火などのたびごとに、被災地に住む人が変わってきたものであり、災害とは悲惨の一語に尽きるものだ。






県央地域のPRのために ターゲットを県央外に絞って再スタート
 2007・07・04

 弊社のホームページを無期限に休止していたが、装いは全く改めないで、6月から復活した。

 毎日、3件から5件くらいのニュースを掲載していたのだが、製版部が片手間で作業していたため、気付いたら、数週間分もたまってしまって、急ぐニュースではないが、さすがにニュースの意味をなさなくなって、しばらく休止せざるを得なくなったもの。

 製版部の強化で、担当者を代え、1日に掲載するニュースを1件か2件に止め、たまらないようにすることにした。

 3件から5件のニュースを1、2件に絞り込むには、休止前も、ニュースを選んでいたが、さらに選ばなければならなくなった。それにはニュースの選択基準を明確にするしかない。

 元来、インターネットの特徴は、誰もが簡単に、全国に、もちろん英語で表記できれば世界に向けて瞬時に情報を発信できるという点だ。

 弊社は、基本的に事件、事故など速報性を重視するニュースは追っていないから、「瞬時」の部分には初めから重点を置いていない。

 英語表記はできないから、日本語を読める外国在住の人は例外として、自ずとグローバルなニュースの配信も不可能。

 では、なぜホームページでわざわざニュースを伝えるのか。

 それは、弊社の取材範囲である県央地域のニュースのなかで、県央地域の人びとではなく、全国の人びとに伝えておくことが、県央地域のため、あるいは特定の企業、個人のためにプラスになるという判断のもとで、代価を要求しないサービスとして行っている。今後は、より一層、その点を明確にして、ニュースを選んで掲載していく。

 ホームページを立ち上げたときから、新聞、雑誌と違い、現在のインターネットのシステムでは「ニュースはお金にならない」ということを理解して取り組んできたし、これからも多分、ニュースにお金を払う人は少ないだろう。

 しかし、県央地域の特性、企業、市民の活動ぶり、特に全国、世界に向けての活動を、全国に広く、かつタイムリーに伝えていくことは、長い目で見て地域の役に立つはず。

 インターネットは、全国、世界の人びとが見ることのできるシステムなのだから、ホームページで暗いニュースばかりを紹介していたのでは、現実を知らない人びとが、県央地域について暗いイメージを抱くだろう。

 とにかく、インターネットの世界は、ボランティアを意識して取り組み、この地域の活力が全国、世界に広まっていくこと、そのことによって、この地域を訪れ、企業や人びとにコンタクトを取りたい人が一人でも増えることが望ましい。

 再スタート1カ月はスムーズに推移してきたので、今度は大丈夫だろう。

 県央地域の人びとには物足りなさもあるだろうが、それは本紙のニュースを読んでいただくことにして、広く全国の人びとがアクセスしてくれるホームページに育てたい。アクセス数も確実に伸びている。






激戦の参院選近し 盛り上がらない新潟県の県央地域
 2007・06・12

 いよいよ、7月5日公示、22日投開票の参議院議員選挙が迫ってきたが、県央地域では、あまり盛り上がりが見られない。

 新潟県選挙区が、定員2人に、民主党公認の現職の森裕子、黒岩宇洋の両氏、参議院議員補選、3年前の本選で敗れ、捲土重来を期す自民党公認、新人の塚田一郎氏の、事実上3人の争いで、一般的には、「民主、自民が1議席ずつ分ける」と見られている。

 ただ、県央地域が盛り上がらないのは、6年前、新人の森氏を当選させた原動力だった渡辺秀央参議院議員が、早くから、次は森氏を推さず、黒岩氏を推すとしてきた。森氏とは選挙で不可分の関係にある菊田真紀子代議士が、やはり生みの親である渡辺参議院議員と袂を分かって森氏を全面支援するのかどうか。労働組合の連合は黒岩氏を支持する動きだけに、菊田代議士も難しさがある。

 先の統一地方選の県議選では、渡辺参議院議員と菊田代議士の不協和音がささやかれ、結局、見附市では、渡辺参議院議員の息子渡辺祐介候補が僅差で敗れ、加茂市・南蒲原選挙区で、菊田代議士が「自らの選挙と同じ」と言って擁立した中尾明美候補が大敗を喫している。

 民主党の鷲尾英一郎代議士は、小沢一郎党首を支持しており、「民主党が政権を取るには保守層にも支持者の輪を広げなければならない」としている。労働組合重点のスタンスではないので、その意味では、小沢党首に近い森氏支援で旗色を鮮明にするのか、民主党公認2人当選の建前でいくのか、これからの動きが注目される。

 一方の塚田氏は、県議選でも証明されたように自民党王国の新潟県で、候補を塚田氏1本に絞って臨むのだから当選して当たり前のムードが蔓延。しかし、3年前に、田中直紀参議院議員と争って敗れているため、表向きは自民党の田中参議院議員も塚田氏を支援する形になるのだろうが、実際の動きが懸念される。特に田中直紀参議院議員当選の原動力の田中真紀子代議士が、自民党を離れて久しいし、次の総選挙では自民党の候補と対決することになるなど、事情は複雑。

 県央地域のムードだけ見ると、塚田氏の陣営の動きは「盛り上がっていない」とされる。

 自民党の安泰ムードをよいことに、民主党は、内部が割れながらも、2人落選はないのだから、結果的に2議席独占を当然目指すことになる。

 3陣営、楽観した方が敗れる。





6月12日は支那事変、「宜昌」攻略の日 日中講和を拒んだ中国共産党の勢力拡大
  2007・06・12

 67年前の昭和15年6月12日は、支那事変で、日本軍が、中国の宜昌を完全攻略した日だ。

 防衛庁防衛研修所戦史室が昭和31年3月に作成した地図「支那東部図」を開いて宜昌の位置を確かめる。支那東部図は、東は上海など沿岸部から西は四川省成都までを収めた地図で、3センチが100キロの縮図。上海から宜昌までは、直線で30センチ、約1000キロ、宜昌から、蒋介石の率いる国民政府が、首都南京を放棄して本拠地を移した重慶までは、15センチ、約500キロ(支那事変陸軍作戦3では、約480キロと表記)。

 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書」を読みながら、地図上に、支那事変勃発後、日本軍が侵攻した上海、南京、漢口などの諸都市に赤丸を付けてきたが、北支、中支、南支の東側と中央の大半の諸都市に赤印が付き、真っ赤だ。白く残るのは、東側では福建省、多くは西側、重慶のある四川省、甘粛省、貴州省などの諸都市。

 西になるにつれ、地図に記された都市の数がまばらになり、それだけ、急しゅんな山岳地帯が多いということで、距離的には、宜昌から重慶まで480キロと近いが、陸軍が攻めるには困難が多いところだったと推測できる。

 宜昌は、日中友好の翼で三条市民となじみの深い「鄂州」から直線で270キロ。三条から練馬の新座料金所までの距離。

 戦史叢書は、宜昌攻略が、支那事変の上でどのような意義があったかというとについて、蒋介石が、前年10月、漢口失陥後に発表した「全国国民に告ぐ書」で、武漢を守る意義は、日本軍の西進を阻止し、東南、中部の工業を移転し、西南の建設を進めるためだとしている点を紹介。

 国民政府は、上海及び沿岸地域に集中していた工業設備を重慶などの奥地に移送しなければならなかった。揚子江を上る大型船で移送するのだが、宜昌の西側に「三峡の嶮」があるため、宜昌で一旦大型船から積荷を降ろし、小型船に積み替えて上らなければならなかった。

 武漢三鎮を攻撃した時に、この宜昌もあわせて攻略しなければならなかった。国民政府は、工業設備を西側に運ぶことによって、長期抗戦の基盤を築くことができた。

 しかし、日本軍が、宜昌を完全攻略したことで、日本軍はもとより、政府もいよいよ国民政府打倒に傾いていく。すでに日本は、中国大陸に戦線が拡大する中で、国力の窮迫が表面化していたのだが、宜昌攻略の前段の白河の攻防では苦戦を強いられた日本軍も、宜昌については比較的、容易に陥落したこと、重慶の国民政府が浮き足立ってきたことで攻勢を強める機運が高まった。

 支那事変のはじめは、国民政府を支援して、日本軍を困らせたドイツも、ヒットラーの台頭で、欧州戦線を拡大、同じ6月12日パリが陥落している。

 中国もさることながら、西欧列強の植民地支配下にあった東南アジア諸国に、日本が石油などの資源を求めて進出しようという南進論も、欧米の日本への石油禁輸の動きと連動して強まってきた。

 日本は、「蒋介石の国民政府を相手とせず」という戦略から、和戦両様の構えに移ったが、中国大陸では、初め国民政府を支援する形だった、毛沢東、周恩来などが率いる中国共産党が北支で勢力を強め、ゲリラ戦による徹底抗日路線を取り、国民政府の日中講和の姿勢に真っ向から反対。ついには、国民政府を離反する政治勢力、軍を糾合して勢力を拡大していった。 日本と中国の講和を事実上不可能にしたのは中国共産党だった。

 西欧列強の植民地支配の中、日本が東洋で唯一、列強に伍していたし、中国については、満州を含む北支以外は、植民地支配しない方針だったのだが。





「仕事が男の生き甲斐」 アークランドサカモト(株)社長坂本守蔵さんのお通夜に参列して  2007・06・02

 たとえ長寿を全うしても親族、知人との死別ほど悲しいものはない。ましてや平均余命が80歳を超えている長寿国日本で、満60歳を迎えずになくなった人との別れは沈痛である。

 アークランドサカモト(株)代表取締役社長の坂本守藏さんが、再発性の胃ガンで亡くなり、5月31日午後7時から、VIPシティホール県央で執り行われた通夜の式に参列させていただいた。

 東証1部上場企業で、地元メーカーはもちろん、全国の著名なメーカー、あるいはホームセンターなど多くの取引があっただけに、全館借り切っての式で、第1会場、第2会場でも入りきれず、廊下にもモニターがセットされて参列者で埋まった。

 福昌寺牛腸俊山住職など曹洞宗寺院3人の僧侶によって読経などが行われ、葬儀委員長の渡邊勝利会頭や遺族、親族などに続いて、参列者が焼香。実に長い列が続いた。

 一方、弔電の披露は、とにかく数が多いだけに、代表的な立場の人からの弔電を読み上げ、名前を披露、多くは、霊前に供えた。

 渡邊葬儀委員長は、手短に御礼の言葉を述べ、長男坂本晴彦さんが、「一昨年の11月、胃ガンで手術し、仕事に復帰。『アークランドが他企業と渡り合うには、年商1000億円にならなければならない』と、大型店を今までにないスピードで出店。昨年12月末に再発性の胃ガンで、医師から、『持ってあと3カ月』と言われた。父は病気のことは知らず、『俺は部下に愛されているから、俺がいないと困るんだよな』と治療に頑張っていた。5月26日の私の結婚式に車椅子で出席、最後の両家代表挨拶で、しっかりと、気持ちの入った素晴らしい挨拶をしてくれた。また、『お前は挨拶が上手になったな』とも褒めてくれた。翌27日夜から症状の変化に、救急車で病院に行ったが、29日午前2時28分、何も言わず息を引き取った。生前の父は、『なにごとも、どうせするなら一生懸命した方がいい。しっかりと目標に向かって努力するも1日、たんたんと過ごすも1日。それが365日になったとき大きな差になる』と言い、病気が治ることを信じて努力し、家族にそのことを教えてくれた。余命3カ月と言われたのが5カ月になった。父はすばらしく、かっこよかった。今後は残された家族一同、力を合わせて生きていきます」と守藏さんの病状を報告し、参列者に御礼を述べた。

 親戚を代表してアークランドサカモト(株)会長で、長兄の坂本洋司さんが、「本人は仕事一筋に打ち込んできた。社業半ばにして病に冒され、倒れたのは残念。しかし、常に『仕事が男の生き甲斐なんだ』と口にしていた。さわやかな、安らかな寝顔を、きのう、おとといと、そばに座って、久しぶりに兄弟に戻って見ていた。『苦しかっただろうな。本当に頑張ってくれたな。充実した仕事をしてくれた。自分のしたい仕事をやれたじゃないか』と心の中で語りかけた。本人もうなずいてくれたような気がした。しかし、天命には逆らうことができない。本当に早過ぎる一生を過ごした」とし、残された遺族を温かく見守ってほしいと、参列者にお願いした。

 いずれの葬儀でも、しめやかではあるが、特に、この日のお通夜は、もともとホームセンター向けの金物卸商社だったアークランドサカモトにあって、中心的役割を果たしながらホームセンタームサシを立ち上げ、「大艦巨砲主義」で、今日の発展に導き、志も半ばだった坂本守藏さんの思いが参列者にも伝わって、一層、重苦しく、厳粛のうちに進んだ。

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