猫に小判
籐四郎 (とうしろう)
昔、日本に道元(どうげん)と言うえらいお坊さんがいました。説明するまでもないとは思いますが。(鎌倉初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。京都の人。内大臣久我(土御門)通親の子。号は希玄。比叡山で学び、のち栄西の法嗣に師事。1223年(貞応2)入宋、如浄より法を受け、27年(安貞1)帰朝後、京都深草の興聖寺を開いて法を弘めた。44年(寛元2)越前に曹洞禅の専修道場永平寺を開く。著「正法眼蔵」「永平広録」など。諡号しごうは承陽大師。(1200〜1253)[広辞苑より])
また、生地は不詳ですが、加藤四郎左衛門景正(かとう・しろうざえもん・かげまさ―通称「籐四郎」)と言う人物がいたのだそうです。彼は道元について宋に渡り、宋の焼き物技法、特に小壷の技術を修めました。そして彼の地で焼いた茶入れと陶土、釉薬を船で持ち帰りました。茶入れを焼きながら良い土を探し、各地を転々とするのですが、最初に窯を築いたのが祖母壊(そぼかい―現瀬戸市)でした。それでここで焼いた物を祖母壊と言い、中国で焼いた茶入れを漢作唐物茶入れと言います。中国から持ち帰った土と釉で焼いた物を唐物茶入れと呼ぶのです。一説には籐四郎が中国で買い求めてきた物が漢作唐物で籐四郎が作った物を唐物と呼ぶ、という言い伝えもあるようです。
その後、瀬戸の猿投山の周辺に窯を移して、いよいよ茶入れの制作に取り組みます。この時作られた焼き物を古瀬戸(ふるせと)と呼びます。正式には「ふるせと」なのですが「こせと」と言われることも多く、広い意味の「こせと」と自分の目で判断しなければなりません。それ以前に瀬戸で焼かれていた物は瓶子窯(へいしがま)と呼ばれました。また、瀬戸では後進の指導にも力をいれます。籐四郎は息子に家業と籐四郎の名前を譲り、自分は隠居して春慶(しゅんけい)と号しました。そこで、この隠居後の焼き物を春慶と言います。
2代目の籐四郎も腕が良く、この人が焼いた物を真中古(まちゅうこ)と呼び。隠居後、同じく春慶と号したため、2代目の隠居後の作は籐四郎春慶、または単に籐四郎と呼びます。
同じく、3代目の籐四郎の焼いた物は中古(ちゅうこ)、隠居後に焼かれた物を金華山(きんかざん)と呼びます。4代目の籐三郎が焼いた物は破風窯(はふがま)と呼ばれます。そして4代目以降の瀬戸を全て、後窯(のちがま)と言い、利休、遠州、新兵衛などがこれにあたります。
違った説も幾つかあるのですが、おおよそこのようなものです。これらは伝説上のお話で歴史的な裏づけは全くありません。しかし、お茶の窯分けの場合、今でもこの伝説にしたがって分けられます。
さらに、遠州の時代にXX手(・・て)と、事細かに分けられました。何の分類学的な根拠によった物でもありません、ただの好き嫌いと趣味の問題だけです。それによって本歌(ほんか)なる、意味もわからず有り難い茶入れがたくさん出現しただけでした。この紙面ではこれらのことを詳しく話している訳にはいきませんが瀬戸、特に茶入れを見る場合に避けては通れない道です。
(忘忙庵)
