希代の銘駒、三条で
新潟県三条市北四日町 竹風駒
 新潟県三条市北四日町、竹風駒で知られる大竹日出男さんは県内唯一、全国的にも珍しい将棋の駒づくりの職人。プロ棋士のタイトル戦の対局に使用される「盛り上げ駒」の制作元として全国に知られる。

 奥野一香、豊島龍山の流れを汲む東京駒の職人として高い評価を受けた初代竹風の故大竹治五郎さんから家業を引き継いだ2代目竹風の日出男さんもまた、名工として評価が高い。

ルーツは櫛づくり

 初代竹風こと治五郎さんは、もともと東京は神田生まれ。治五郎さんの父、日出男さんの祖父にあたる治郎松さんが三条市出身で黄楊を使った櫛づくりの職人だった。「将棋の駒は角度が同じ」ということもあって櫛づくりの傍ら、将棋の木地づくりも行っていて、幼い治五郎さんが木地を駒師に配達する仕事を担当していた。その納入先が先の奥野一香と関係する職人で、治五郎さんはこれをきっかけに駒づくりを覚え、ここから竹風の歴史がスタートした。

 太平洋戦争下の東京大空襲で焼け出されて、親戚が多い三条市にやってきたのが、竹風駒が三条市に根付くきっかけ。当時の三条市では木工が盛んだったことや、刃物づくりの土地というのも功を奏した。

 現在、駒づくりで生計を立てる職人「駒師」が存在するのは三条を除いて大阪府、駒の産地として有名な山形県天童市だけだ。日出男さんは「全国的に見ても盛り上げ駒を作る駒師は、5、6人でしょう。趣味で作る人は最近、増えていますが」と話す。

 駒づくりは戦前、東京都が最も盛んだった。次いで大阪、山形で、日出男さんは「今では山形もいい品を作っているし、駒の99%が山形で製造されているが」と前置きしながらも、「昔はいい品は東京、どちらかといえば山形は大衆駒だった」と振り返る。東京の駒師の流れを汲むということはまさに、駒づくりの王道を受け継いでいるともいえる。

2代目竹風・日出男さん史

 竹風駒では、家族ぐるみの家内工業として駒を制作していて、盛り上げ駒のほか、字を彫り込んだ彫り駒、彫り込んだ字を漆で埋めた彫り埋駒も制作する。

 日出男さんは、三条実業高校(現・三条商業高校)を卒業すると、当時「東京1と呼ばれた碁盤店」の前沢碁盤店に奉公に出された。一切機械を使わず碁盤を作り出すという、今では信じられないような技術を持った店で「1人前になるまで」という約束で修業を開始。ここで3年間、修業に明け暮れる。

 「中学生くらいのときから、遊びで駒を作っていた。家に帰れば手伝いをするのが当たり前だったし、もちろん手とり足とりなどということはないが、駒づくりについてはここでも学ぶことができた。田舎だから駒づくりのほかに碁盤の修理などもできるようにということ。なにより1番は他人の飯を食ってこいということだったのでしょう」と、前沢碁盤店に修業に出した治五郎さんの考えを分析。駒づくりだけでなく、今でも大竹碁盤店として、碁盤の研ぎなおしや修理も行う。

 前沢碁盤店も日出男さんが奉公した当時の当主の甥にあたる人が引き継いでいて、「今でも兄弟子として『兄さん』と呼ばれます」。

 21歳で三条に戻って、駒師として本格的にスタート。「1人前になったと思ったときは」と質問すると、日出男さんは「完璧に仕事をやりきったという仕事はまだしていません。一生かけても追いつかないかもしれないが、目標をもって仕事をしているから、続けていられるのかも知れない」と、答えた。

目標とする駒師は金井静山さん、その駒は「言葉では言い表せない。あえて言うならば、凛としていながら、温かみのある駒。父の目標も同様だった」と言う。金井さんは「最後の名工」ともされ、1991年に没している。

気の遠くなるような駒づくり

一生に1度出会えるかという盛上げ駒 日出男さんが重要視するのが、素材との出会い。竹風駒の木地は、伊豆七島の御蔵島の原生林で伐採された黄楊。

 御蔵島は島の周囲を断崖絶壁に囲まれた島で、港といっても桟橋があるだけ、集落も島のほんの一部であとは原生林。日出男さんは毎年、伐採時期の冬に必ず直接買い付けに行く。冬の海が荒れる最中、羽田空港から八丈島、八丈島からヘリコプターで御蔵島へと移動だけでも一苦労。

 黄楊は非常に成長が遅く、材料として利用できるまでに優に100年以上かかる。御蔵島では黄楊の伐採と同時に植樹もしていて、現在伐採される木は明治初期に植樹されたもの。

 木地は木目によって「柾」、「杢」に大別され、柾はさらに「赤柾」、「糸柾」など、杢は「虎斑」、「孔雀杢」、「根杢」などとさらに細かく分類される。

 蒐集家などに人気があるのは、光の加減によって木目が美しく変化する「虎斑」や「孔雀杢」だが、長時間駒と向き合うプロ棋士はこの光による変化が「目に刺す」と嫌って柾を選ぶことが多い。「最近は虎斑を使うこともありますが」と日出男さんは付け加えた。

 黄楊の買い付けは、原生林に生えている原木を見て行い、伐採してみるまでどのような木目かは分らない。そして42枚ある駒を、均一の木目で揃えるのは非常に困難だと想像に難くない。「これはと思える木地に出会えるのは10年に1度くらい」と、日出男さん。

 製材されてきた木地を将棋の駒にできる大きさに分けた後、長い時で乾燥に5年かかる。しかも木地を切り分けるときには乾燥による変化を見越して「どれも王将にできる大きさで切る」。そのうえ材料に均一に木目が入っている訳でもない。「木地を揃えられた時点で仕事の半分は終わったようなもの。いい木地に出会うと、どんな駒になるのか楽しみで」と、駒づくりで木地を揃えることの大切さを説く。

 さらにここから、将棋駒の形に成型、駒字の彫り込み、漆の塗り込み、盛り上げ駒の場合は文字の盛り上げと作業が続き、気の遠くなるような時間と作業を経て駒になる。

 盛り上げの作業は、日出男さんが1人で部屋に籠って行う。「ほこり1つでも漆についたら、失敗」となるからだ。普通、書道では2度書きは厳禁だが、盛り上げ駒では何度も字をなぞりながら一筆で書いたような勢いを表現する。

 竹風駒で人気がある書体は旧巻町出身の巻菱湖(りょうこ)や、錦旗(きんき)、水無瀬(みなせ)、昇龍、源兵衛清安など。木地の木目や注文者の好みに合わせて書体を選ぶ。

 日出男さんが見せてくれた「一生に1度作れるかどうか」という駒は、杢、錦旗書の盛り上げ駒。すべての駒に均一にまるで行雲のような杢が入り、木地自体が漆で仕上げたようなツヤを持つ、「こればっかりは、譲ってくれと言われても譲れませんね。家宝のようなもの」。

 真っ直ぐな木目が入る柾もまた貴重な木地で、「虎斑や孔雀杢は突然変異のようなもの、木目を見てもいかに成長過程が厳しかったか分かる。反対に柾は優等生とも言える」という。

駒師として

 日出男さんに職人としての喜びはと、聞くと、「お客様から『これはいい駒だね』と言われたときが、1番うれしい」と、答えた。

 将棋人口が減少をたどり、駒や盤の需要も減少傾向。駒師もまた減少している。「私たちの世代の次の世代がどうするかでしょうね。期待できる若手も何人かいますし、決して絶えたりはしないと思いますが」と言う。名工竹風の駒づくりを学びに後進が訪ねて来ていて、日出男さんは、こういった後進たちに惜しみなく対応している。

プロ棋士のタイトル戦で使用されるということ

 老舗旅館などで行われるタイトル戦。地元開催が決まると、将棋盤、駒ともに関係者などを通して地元の愛好者から「ぜひ使ってほしい」と、自慢の逸品が寄せられる。これを日本将棋連盟の検分人が吟味。寄せられたなかから盤は1つ、駒はいくつかを選抜する。駒はさらに対局する棋士が話し合って決めるという流れ。タイトル戦で使用されることは、まさに逸品中の逸品という証。 
                                                (外山)