
新潟県燕市の磨き屋一番館では、昨年秋から国内メーカーからの発注で小型ジェット旅客機の外装部品の研磨を行っている。磨き屋一番館を運営する燕研磨工業(協)(田中三男理事長)や、磨き屋シンジケート(平浩昭チェアマン)など燕の磨き職人の技が評価されたもの。
太平洋戦争下の燕市内では、国の施策などから軍需産業に関わる企業があり、昭和17年から終戦までのわずか2年ほどの間、「燕航空工業株式会社」という会社が存在、鎚起銅器職人らが航空機関連部品の製造に挑戦していた。
若者に夢・ジェット機の研磨
磨いているのは、主翼部分。全部で10工程以上の研磨作業のほとんどが手作業。組立てると10メートルほどの部品をそれぞれ研磨。月産で約3機分を納入している。
鏡のように仕上げるほか「金属板をつなぎ合わせているリベットの部分も平になるよう」、磨き上げる。空気抵抗を少なくすることができるほか軽量化にも貢献できるため、燃料消費を抑えることができる。
磨き屋一番館では、メーカーからの引き合いを受けて昨年9月から作業を行い、手がけた機体の認可を待った。

にいがた県央マイスターでもあり、磨き屋一番館の指導員でもある田中理事長、古関鐡男さん、大原實さんは「合格の知らせがきたとき、この道40年の3人が祝いをあげましたて」と、この仕事に対しての緊張感を話す。
人の命を預かる航空機だけに、検品時には超音波測定器を使い1000分の1ミリ単位で計測するなど厳しい品物。指導員の3人は、「どのような仕事にも、同じように緊張感を持つことが大切だ」と口をそろえた。
研修生らもこの仕事にあたっており、3人は「若い人に夢を与えられる新分野への取り組みはインパクトがある」としたほか、「テレビなどで自分たちの仕上げた部品を使ったジェット機を見ると、思わず見入ってしまう」と、顔をほころばせた。
県央マイスターブランドの商品として新たに、加工が難しいとされるチタンを使用した「チタンカップ」を開発して、12日に県央地場産業振興センターで開かれた(社)日本青年会議所北信越地区協議会主催の2008地区フォーラム
燕三条でお披露目して販売を開始した。
磨き屋一番館では、この主翼の研磨が全体の5分の1ほどを占めるほか、自動車や建築部品なども手掛ける。もともと「地場産業の他社の仕事を取らない」ため、あえて地場の仕事は避けてきたが、昨今の職人不足や中国製品への不安の高まりなどで産地への発注が増加「産地を助ける意味で」、地場の仕事も取り入れている。
鎚起銅器職人らが燕航空工業株式会社設立
燕航空工業株式会社は、鎚起銅器の玉川堂五代、玉川覚平さんや、玉虎堂の柄沢虎二さんら、当時の燕の経営者たちが戦時中の昭和17年に設立した会社。
玉川堂7代目、玉川基行さんの「玉川堂物語5(郷土誌燕掲載)」によると、「軍から呉羽紡績の木製飛行機の胴体金属部分の制作を命じられたほか、立川飛行機の下請けとなり、航空機の板金部分を制作した」という。
同社は終戦とともに解散しており、当時を知ることができる資料は、会社創立記念の写真と、添えられた文章のみ。写真には名前が分かっているだけで前列左から今井栄吉さん、柄沢さん、五代覚平さん、元越後交通社長の中野四郎太さん、古島安二さん、捧吉エ門さん、樋口貞一郎さん、後列左から大関清次さん、大橋俊平さん、田中辰治さん、目黒さん、峯島礼一さん、森井さん、最後列には大塚さんのほか姓名不明の2人の合計16人が収まっている。
当時を知る 2人の話
昭和19年から平成7年まで、玉川堂の鍛造部門だった株式会社玉川鍛工所、玉川堂に勤めていた長沼良祐さんによると、燕航空工業は「新潟から銅器の職人を呼んできて働いてもらっていた。終戦になって会社が解散すると、その職人も玉川堂に入って銅器製造に携わった」という。同じく長沼さんによれば「工場は昔の玉虎堂の隣(燕市南)だった」。
戦時中は、同社のほかにも航空機部品製造を手掛ける会社があったことが確認されているほか、航空機以外にも軍需産業に携わる企業が多かった。
(株)和田助製作所の和田貢一会長は、当時について「奢侈品等の製造販売規制があったために、洋食器や銅器が製造できなくなった。また、太平洋岸は空襲が激しかったために軍需品の生産が燕にも入ってきた」とする。
当時、和田助製作所ほか3社で「燕工業社」を設立し、旧日本軍から技術指導官がやってきて指導。九九式軽機関銃の弾倉、機関砲に弾を補給する補弾子(ほだんし)を製造していた。また和田会長の記憶では、軍刀(サーベル)の鞘や、敵船が内湾に入り込まないよう張る網のブイなどを製造する会社もあったといい、金型など、このとき入ってきた製造技術が戦後のハウスウェア製造に貢献した。
燕航空工業について和田会長は「定かではありませんが、2年ほどの活動で航空機部品を製造できたのかどうか。もちろん、製造に向けて前向きに取り組んでいたと考えられますが、酸素溶接に必要なカーバイトの配給の関連もあったと思われます。市内の航空機関連部品では洋食器のフリクションプレス機を応用してリベットを製造していた会社もあります」としており、航空機部品の製造に関して慎重な見方もある。
また、当時製造された軍需関連の品や資料が現存しない理由について、和田会長は「私は昭和20年に徴兵によって軍に入隊して、捕虜としてシベリアへ抑留された。昭和23年に燕に戻ると、自宅に試験用の模擬弾と、燕工業社で製造していた弾倉があったはずだったが、なくなっていた。父親に聞くと、進駐軍による検査を恐れて処分したといいます」と、述べており、同様の理由で多くが処分されたとみられる。
銅器製造回帰、新分野とも職人が支える
戦後、玉川堂は五代覚平さんが、鎚起銅器を復活させ、現在の鎚起銅器・玉川堂の基礎を築いた。戦中の名残であった玉川鍛工所も鍛造部門として自動車部品や作業工具、洋食器などを製造したが、こちらは現在行われていない。
燕に伝わる伝統産業を今に伝え、ブランド化に成功した玉川堂。研磨の業界団体による新たな取り組みと新分野受注。いずれも職人技が地場産業を支えていることを物語る。
(外山)
