現役最後の1年「感謝の思い出」
燕市教育委員会 与田剛さんスポーツ講演会
 燕市教育委員会は21日午後7時から燕市吉田産業会館でスポーツ講演会を開催した。

 講師は、NHK野球解説者、NHK「サンデースポーツ」メーンキャスターでおなじみの元プロ野球選手、与田剛さん。

 国内四球団を渡り歩き、現在はNHKのメジャーリーグ中継などの野球解説者として活躍。第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では原辰徳日本代表監督のもとでピッチングコーチを務め、チームを世界一に導き紫綬褒章を受章したことでも知られる。

 当日は会場までのシャトルバスを準備。人気解説者の講演会とあって、350人以上の市民が駆けつけた。市内の少年野球の指導者など野球関係者のほか、高校球児や少年野球チームの子どもたちなどの顔もちらほら。また、教育委員会では要約筆記を配し、耳の不自由な人にも楽しんでもらえるよう配慮した。

 講演会終了後、与田さんは新幹線の出発時間ギリギリまで玄関前のロビーで、参加者の記念撮影やサインに応じるなど、現役時代から変わらぬファンサービスを振りまき、子どもたちもサインをもらってにっこり。

 与田さんが「スポーツの力・今、この時、自分ができること」をテーマに、自身の現役時代や、WBCコーチ時代に一流選手を観察して分かったこと、東日本大震災に翻弄された、ことしのプロ野球界などについて、テレビでは聞けない裏話や、人気選手の側面を紹介。

 また、参加者からの質疑応答では、子どもたちの質問にも快く応じた。

 最後にはアルビレックスBCの選手兼監督に就任が決まった高津臣吾投手に触れ「大学4年のときの1年生の後輩。ぜひ可愛がってください。とっても良いヤツです」。

 鈴木力市長は冒頭の主催者あいさつで、現役時代、157キロの当時日本最速記録を持っていた与田さんについて「私は入団1年目が印象に残っている。本当に速い球を投げて、バッターを討ち取る。そして、本当に大丈夫なのかな、と思うほど投げ続けていた。あのとき、インタビューでキャスターが『大丈夫ですか』と問いかけたのに対して『この仕事を全うするために壊れてもいい』と話していたことがすごく印象に残っている」と語り、与田さんの物事に対して取り組む姿勢を称えた。

 講演要旨は次の通り。

・自身の現役時代と、かつて上司だった星野仙一監督、野村克也監督について

 私がプロ野球の世界に入ったのは、1989年のドラフト会議で中日に1位で指名されたときから。そのときの上司が、テレビや雑誌で「理想の上司」なんていわれていた星野仙一さん。理想の上司に挙がっていたときには「なんで?」って思いましたよ。みんな、なんにも知らないんだな、と。星野さんは、みんなから「闘将・星野」と見られる印象がある。そんな星野さんに選ばれて、中日ドラゴンズにドラフトでは1位という順位で選んでいただいた。

 高校時代は甲子園に出ていないし、大学時代には血行障害で手術もしていた。それで投げられるようになるまで1年半かかった。すでに大学4年生になっていた。就職活動をしなければならなくなり、2社から声がかかった。でも、どちらも軟式のチームだった。そこで夢が終わってしまうのかな、と思った。現実を突き付けられてあきらめなければならないと思った。でも、そこですぐに手を差し伸べてくれたのがNTTだった。誘ってくれたおかげで野球を続けることができた。

 私は5歳のとき、父の影響で野球を始めた。背番号で1番を付けることもなく、高校では甲子園に出られず、大学でも1勝しかできていない。なぜ、そこからプロ野球の世界に入り、タイトルを獲ることができたのか。それは、周りにいた、たくさんの人たち、後輩や先輩、仲間や上司がいろいろなヒントをくれたから。それが私の人生で1番の財産になっている。

 それまでなにもできなかった自分がドラフトで大きく人生が変わる経験をしたのは、社会人1年目で、全日本代表に選ばれたことがきっかけ。あのときは野茂(英雄)が一緒にいて、世界各地を転々として大きな舞台で野球をやっていた。受けるキャッチャーはあの古田(敦也)。彼とは同級生で、毎日、一緒にごはんを食べる仲。彼とバッテリーを組んで海外に出て強豪と戦う。本当に大きく環境が変化した。

 2度とこんなチャンスはこない。逃さないように結果を手に入れようと、マウンドで投げた結果、プロに入ることができた。

 星野さんはご承知の通り厳しい監督。私は抑えをやらせていただいて、あるときピンチを作ってしまった。するとキャッチャーの中村(武志)がベンチに呼ばれ、裏の方からいろいろ音が聞こえてくるんです。殴っている音ですね。私は次の回も投げる必要があったので、それを止める勇気がなかった。出てきた中村はユニフォームに血が落ちていました。

 ある東京ドームの巨人戦で、今も現役で投げている山本昌(本名・山本昌広)がリードしていて5回まで投げていないのに降板した。「なぜだろう?」と思っていたところ、やはり山本昌は殴られていた。さすがに東京ドームの全国中継なので、星野さんは血だらけのピッチャーをマウンドに上げさせるわけにはいかなかったのでしょう。顔だけはきれいでした。

 そんな星野さんに選手がなぜ、ついていけるのかというと、それは厳しさ以上の愛情を受けたからです。あの人を優勝させたい、日本一にしたいという思いを持っていたからこそできた。

 私は7年、ドラゴンズにいて、そこでロッテにトレード。そこからすぐにアメリカのマイナーリーグに行き、英語がしゃべれない中、外人に囲まれバスで10時間移動する経験をした。よくマイナーリーグは「ハンバーガーリーグ」と呼ばれるけれど、現実にそういう光景を見た。今は円高で違うけれど、ハンバーガーが日本円で1個50円のとき、ある選手が紙袋にいっぱい買ってきて試合前に食べ、試合後に食べる。10個くらいかな。1日に500円しか使えない生活をしていた。そこで、いかに日本が恵まれているのか目の当たりにすることができた。

 すぐにロッテに戻ったけれど、人生で初めてのクビを経験した。自由契約とも言いますけど。そのあと入団テストを受けて日本ハムに入団したけどクビ。そのあとで、野村さん率いる阪神タイガースに入団した。

 野村さんは星野さんとはまったく違うタイプ。殴ったり蹴ったりはしないが、言葉の暴力がすごい人。殴ってくれたほうが楽なんじゃないかというほどブツブツ言われる。

 野村さんにテスト入団でとってもらい、1年間、野村さんの下で仕事をした。

 たった3日間のテストでした。しかも実質1日だけ。あとの2日は調整に充てるんです。このテストは受けにきた選手同士がチームを組んで試合をやるというもの。たった1日で自分の人生が決まってしまう。仕事がなければ家族を養えないというプレシャーを感じた。

 調整中、走っていると野村さんがそばにきた。そして、ほかのテストを受けにきた選手を指さして「あいつら何してるんや」と言ってきた。選手たちはすでにランニングを終えてストレッチをしていた。私は、まだ走り足りなかったので走っていた。ほかの選手はお互いに話をしながらストレッチしていた。「体操しています」と私が答えると、「そんなの見れば分かる、アホ」と。そして「わしは先に、試合でテストをやると言った。みんなテストに来ている人が、よく輪になって笑顔で話していられるな。その心理が分からん」。私もそうだと思った。だれかが落ちて誰かが受かるのは分かり切っていること。別に喧嘩(けんか)をしているわけではないのだけれども。ここで、私は「この人はこういうところも見ているのだ」と思った。

 やはり、職種は違ってもトップに立つ人たちというのは、結果だけではなくて結果に向かう手順や人を観察することにたけているのではないかと思った。合格したあと野村さんに「時間だけはどんな人間にも平等に与えられている」という言葉を教えてもらった。当たり前のことだけれど、その通りだと思った。

 それまで10年間、プロ野球選手として生活してきて、野球ができる喜びや投げること、走ること、目が見えること、耳で聴けることに対して改めて感謝しなければいけないという思いでユニフォームを着た。最後の1年間はそういう思いで野球に取り組んだ。

・原辰徳監督とWBC

 星野さんと野村さん、対照的な2人に会ったが、若い原さんとはWBCで一緒になった。2008年に携帯電話に見慣れない番号から電話があり、留守電を聞くと「巨人軍の原です。手が空いたら至急連絡ください」とさわやかなメッセージが残っていた。

 ちょうど10月で人事の時期。「やっと巨人に入るのか」と思った。しかし、冷静に考えて、巨人と私は関わりが少ない、呼ばれるわけがないと。するとキャスターとして世界の現場で見てきた私の情報を原さんが必要としているのかもしれないと思った。電話をかけるとシンプルに「やってくれないか」の一言で実現した。まさに天にも昇る思いだった。前回世界一になった名誉ある立場をいただいて原さんとできるのだから。

 向かった(キャンプ地の)宮崎のサンマリンスタジアムには5万人以上のファンが来て。どこにいても人、人、人。そこでイチロー選手に「こんなところで一緒に仕事をするとは思わなかった」と言われ、うれしかった。2001年からNHKで解説者をしていたので、いつも取材をしていた。彼は非常に誤解されやすいが、とても謙虚で礼儀正しい選手。

 星野さんとも野村さんとも違う原さんの指導は気になっていた。

 そこで原さんの「侍ジャパンなんだから」という提案で茶髪の選手をどうにかさせようということになり、投手では湧井(秀章)とダルビッシュ(有)、野手では横浜の村田(修一)。村田は茶髪というよりも横のすごいラインというか、ね。

 湧井に「侍ジャパンだから…」というと「髪の毛でしょ」と逆に返されて。私自身は茶髪が悪いとは思っていなかったが、「わざわざ第一印象を悪くしなくても」という思いは確かにあった。湧井は「東京に帰ってからでいいですか」と答え、「なんで?」と聞くと「青山に行きつけの美容院がありますから」って。ダルビッシュは「僕はハーフなんで」。

 村田選手については原さんが「僕から言うよ」。原さんは村田のことをシュウと呼んで面倒見ていた。

 あとで聞いた話だと、原さんは「僕の周りにそういう髪形の人はプロレスラーしかいない」と言ったそう。そこで村田は髪の毛を刈り上げてラインを消した。

 原さんは監督として殴るわけでもブツブツ言うわけでもない。本番で力を発揮するための環境を整える指導者だと思った。「ジャイアンツでは怒ったりしないんですか」と聞いたら「顔はまずいから蹴るよ」と。やはり聞くと結構、怖いようです。でも、みなさんに共通するのは愛情と厳しさ。

 また選手から教わったこともある。WBCに呼ばれるのはご承知の通りすばらしい選手たち。指導者としてじっくり観察しようと思った。たとえば、ピッチングフォームで腕の角度やグラブの位置。そうしたものをきちんとノートにとって観察した。そこで共通しているのは、一流選手の持つ素直さ。素直だからできるのかもしれないと思った。それは気づく能力にたけているということでもある。だから、すぐに言われたことを受け入れられるのだと思った。短所を指摘されると私はカチンとくる性格だった。短所を指摘されても素直に受け入れ、気づくことができることが大切だと教わった。

 それからサンデースポーツのキャスターをやり始め、野球以外のアスリートと話させていただくことがあって、やはり、みんななんて素直なんだろうと。その上で、自分に必要なものと必要でないものを消化していくことができている。

・東日本大震災と震災による開幕問題について

 私は3月11日には海外にいた。現地で食事会をしている最中で「みなさん、ご家族に連絡してください」と言われテレビをつけたところ、そのままの映像を流していた。日本では編集されているような、津波に飲み込まれ人が亡くなっていくシーンをまざまざ見た。翌日、空港で八時間待ってやっと帰国できた。家族ともメールで連絡が取れた。こんな経験は初めて。計画停電にも遭い、食料を何時間もかけて探しにいく。関西の知人に分けてもらい、人のありがたみを改めて感じた年でもあった。

 一方、プロ野球ではセ・パ両リーグの同時開幕ができず大変なことになった。

 これはセ・リーグの関係者が説明責任を果たさなかったことがミスだと思う。セ・リーグはパ・リーグに比べてドーム球場が少ないために雨天中止がどうしても起こる。同時に開幕したとしても、どうしてもセが遅れ、日本シリーズまでに誤差が出てしまう。だからセ・リーグはどうしても早く開幕したいという思いが強かった。また加藤(良三)プロ野球コミッショナーも、延期が日本経済に与える問題を重要視し、「なんとしても予定通りに」という思いが強かった。

 そんな中、選手会長の新井(貴浩)が「こんなときに野球をやっていいのか」とコメントした。

 しかし、選手は野球が仕事。仕事をしないということは、それなら年棒を数%返還する覚悟をするべきだった。仕事をしなくていいということはそういうこと。だが、ファンが選手をかばった。これは冷静さを失っていたのかもしれない。それに電力の問題もあった。こういうことも確かに分かる。しかしプロ野球は1試合やらなかったら、何人もの人の給料がもらえなくなってしまう。「プロ」と付く以上はやらないわけにはいかない。

 よく「スポーツで元気にさせたい」という言葉を聞くが、それはとても難しいこと。今できることをやることが大切なんだと思う。だから私たちはOB同士で被災地に行って、子どもたちにいやな時間を忘れさせてあげられる時間を作ってあげたいと思い、一緒に遊ぶ機会を設けている。

 今年は、「プロ野球ファンが離れてしまうのではないか」とも思ったが、選手が必死にプレーすることが1番、ファンを引き付けるためには効果的ではないかと思った。 

・なぜ、自分はリストラに遭いながらも挑戦を続けられたのか

 それは決して自分の力ではない。夢をかなえるためには、「かなうまで続けるから、かなえられる」と答えている。「野球をどうやったらうまくなるのか」ともよく聞かれるが。うまくなるためには自分で考えること。自分から考えて行動したことは、たとえうまくいかなくても経験と記憶が残るものだから。

 私の息子は私と同じプロ野球選手を目指している。厳しい道を選んだと思う。実はまだレギュラーにはなれていないし、1試合しか出ていない。先輩たちが戦っている間、別の球場でビデオカメラを持っていたこともある。偵察隊です。

 だから、だんだん「野球選手になりたい」とは言わなくなってきた。今まで、私も「与田の息子だから簡単になれると思うな」と言ってきた。ただ、「お前の人生なのだから、決して野球選手になる必要はない。だけど途中であきらめないでほしい」と言っている。少なくとも「途中でやめる」という経験を高校時代にはさせたくない。だから、今も続いているのだと思う。

 今、目の前に「野球がうまくなりたい」と言う子どもがいたら、「私のような人でもプロになれると思ってほしい」と言葉をかけるだろう。「夢は必ずかなう」とは私の口からは言えない。ただ、やらなければ達成できない。

 「努力」や「頑張れ」という言葉が私は嫌い。代わりに昔から私は「準備」という言葉を使っている。目標のために準備をしてください。自分よりうまい人が練習していたら私は練習を止めない。その人が練習していないときが差を埋めるチャンス。そこでも練習をする。それが準備。

・落合博満監督について

 現役時代に一緒にプレーした。私は当時、抑えをやっていてショートには立浪(和義)。キャッチャーは中村。どちらも私より若かった。

 私はピッチャーとして、ピンチの時に周りの選手にマウンドに集まられるのが嫌いだった。弱弱しく思われるので。

 ある日、ピンチになり、みんながマウンドに集まろうとしたので「来なくていい」と言ったら、落合さんが「俺にも言っているのか」と。

 そこで2人でマウンドに立ったときに、「剛、ネット裏を見ろ」と言われた。そこはファンがいるだけだったが、よく見たら、信子夫人と福嗣くんがいた。「あのな、0時から食事の時間なんだ」と。時間を見たら40分過ぎていた。その瞬間「すぐに終わらせます」。

 私は落合さんが監督になったときにすごくうれしかった。まったく違う角度から選手を冷静にさせる、あの場面で冷静に指導できるのはすごい。ファンサービスがあまり良くないと言われるが、私にとっては師匠みたいなもの。現役時代は食事をしながらバッター心理を教えてくれた。

 ジャイアンツの原さんやクロマティと対戦するために、球界ナンバー1の落合さんに指導されるとそういう選手が怖くなくなる。それでも結構、打たれましたけれども。

 早くユニフォームを着てほしいですね。次はファンサービスももっとやるのではないでしょうか。

・(質疑応答)今までで最強のピッチャーとバッターは?

 バッターはいろいろな捉え方による。私が初めて場外ホームランを打たれたのは清原(和博)くん。オールスターでピンポン玉みたいに飛んでいきました。飛ばす力ならキヨが1番。

 ピッチャーだと野茂。アメリカで活躍して今はエアコンのコマーシャルに出ています。あのトルネード投法は、となりで投げていて自分が投げるのを忘れるくらいすごい球。この日本にこんな人がいるんだと思った。そして、ことし亡くなった伊良部(秀輝)。今のガンなら160キロオーバーしている。ものすごく速くてワクワクした。

・(質疑応答)へたな人にも野球を続けてほしい。そういう人に対しては?

 指導者には「野球を嫌いにさせないでくれ」と話している。競争の世界だが、一生懸命に練習しても試合で使ってあげられない、というのは勉強してもテストを受けさせてもらえないのと一緒。受けさせてもらえなければ嫌いになる。こういうことを意識してほしい。

 子どもたちには、「1歩ずつでいいよ」と。そんなに慌ててうまくなろうと思わなくてもいい。そして、野球が嫌いになってしまったら「止めろ」と言うこと。嫌いになったらやる意味はないと思う。

・(質疑応答)監督をする意思はあるか?

 指導者としてユニフォームを着たいという思いはある。しかしチャンスがない。こちらは選んでもらわなければいけない立場なので。

・(質疑応答)ポスティングシステムとフリーエージェント(FA)制度について

 FA制度に関しては、8年・9年という取得にかかる年数の問題が取りざたされているが、球団としては契約金という形で先行投資をしている以上、長い期間、(選手を)保有したいと思うのは当然。(期間短縮は)契約金を下げないと難しいと思う。

 ポスティングについては、とてもアバウトな制度。今は選手を保有する球団が得をする。たとえば、ダルビッシュに対して日本ハムは1年で5億円を支払っているが、入札で球団に50億円が入ってくる。

 また、昨年の岩隈(久志)のように、入札妨害が起こるという問題がある。欲しいチームは本当に払える金額しか提示できないが、獲得する気がない球団は高い値段で入札し、交渉権だけ取って、契約面で選手側が断るようにすれば、なしになる。選手のためにならないと懸念されていたが実際に起こってしまった、今のポスティングは本当に力がある選手でないと成立しない。今年も青木(宣親)と中島(裕之)が利用したが入札額は高くなかった。今は、転換期。もっと考え直さないといけない制度だろう。    
                                               (細山)


 2011年12月24日本紙掲載