切れ味、研ぐ文化国内外に
潟^ダフサ70周年、次は海外直営店
 新潟県三条市東本成寺、(株)タダフサ(曽根忠幸社長)は昭和23年4月1日の創業から今年で70周年を迎える。4月下旬から5月上旬の大型連休には記念イベントと「庖丁工房タダフサ」の新商品「ステーキナイフ」の発売を予定。曽根社長は今後5年以内でアメリカ・ニューヨークへの出店を目標に掲げ、「包丁を研いで使う文化」の輸出を念頭に、海外への販路拡大に取り組む。

海外、今だからこそ次の手

二代目、三代目を中央に、タダフサを支える社員たち 曲尺作りから漁業用包丁で屋台骨を築き、利器材の開発にも取り組んだ初代・寅三郎さん、見本市への積極出展、首都圏の老舗との取引開始など現在に続くブランドの礎と受注量確保の両面を担った2代目・忠一郎会長。

 3代目の忠幸社長は「次の100周年にバトンタッチするとともに、三条のものづくりを持続可能なかたちに盛り立てることが仕事」と70周年と合わせて、次の100周年を見据える。国内外に向けて「包丁の切れ味だけでなく、ものづくり、包丁を使う文化を伝えたい」と志を持つ。

 タダフサでは「売上ベースで25%が海外向け、これにインバウンドの需要を合わせると30〜35%が海外に出ていると考えられる。日本の鋼で作る刃物、日本のものづくりが評価されている。業界が活気づいているからこそ、トライしないといけない」として、ニューヨークへの直営店出店を目標に掲げる。「燕三条のセレクトショップとして何社かと組むようなかたちで、世界にPRしていきたい。国内の需要が縮小するなかで、海外に攻める」。

 すでにユーザーには包丁を研いで使うことが浸透してきている。海外でも包丁をメンテナンスできる取引先の売上が好調で、「日本の包丁の切れ味は、和食以外のシェフたちにも支持され始めている」。

 自社だけでなく、産地として「国指定伝統的工芸品の10品目をどうやって後世に残していくか、技術継承以前に産業として残していかなければならない」と課題意識も持つ。

 「鍛冶の仕事は僕らだけで成り立つものではなく、木工、パッケージやデザイン、問屋さんの流通的バックアップ、公的機関の技術的なバックアップなど、三条では当たり前に思われているような環境が、全国的に見れば非常に恵まれている。産地として次世代に、ブランドの維持が地域を守ることにつながる」と100周年を見据える。

工場の祭典を日常に

 地元に向けて発信する催しにさらにも注力する。春には庖丁工房タダフサファクトリーショップ2階にキッチンスペースが設置され、大型連休に合わせて記念イベントを開催する。東京都目黒区のジビエ料理、ラ・ブーシェリー・デュ・ブッパのシェフ神谷英生さん、ハンドパン奏者の久保田リョウヘイさんが来場する予定。産地としての幅も広めようと、鉄のハンドパン作りにも数社と協力して取り組む。

 燕三条工場の祭典や地域企業有志で行うイベントはもちろん、同社独自の催しも来場者が増加傾向で、メンテナンスを通じて顧客との意思疎通を図っている。海外から訪れる人も多く、オーストラリア出身の社員、田野ネイソンさんが英語で対応できる強みもある。

 忠幸社長が事業を引き継いだ平成23年は「庖丁工房タダフサ」の誕生と同時に、東日本大震災によって売上が大きな落ち込んだ「運命的なタイミング」だった。

 カタログ掲載アイテムの絞り込みや、小売店との直接取引などに着手。「2割引、3割引が当たり前の製品作りで、職人はプライドを保つことができない。メーカーがものづくりをできる環境を残すことも仕事だ」と、市場に大幅値引きで出回っていた旧ブランド「忠房」を消すという荒療治も行った。会長の祖父・忠太郎さんから一字とり、工房を意味する「房」を当てた由緒ある名だが、価格が安いために「本物ですか?」という問い合わせもあったためで、ブランドを、地域を守る決断だった。

「良いもの早く」が口癖

 昭和23年の創業当時、忠一郎会長は5歳。「企業は30年周期で衰退するとされる中で、70年続けてこられたのは、時代やニーズに沿った商売ができているということ。私も右も左も分からず、東京へ攻め、3代目は海外を見据えている。初代寅三郎の口癖は『良いものを早く作れば、当然高く売れる』だった。東京の刃物の老舗から初めて受注をいただいた当時は、『ある産地では責任の所在が分からないが、タダフサならば一貫生産ができる』ということで現会長が訪ねてこられ、利器材のメーカーにも案内して『この工場の設備なら』ということだった」と、創業から平成元年の事業承継、現在までを回想した。

 寅三郎さんが同市四日町に前身の曽根製作所を設立。市内業者の要請を受け漁業用包丁を製造するようになったことがルーツ。三陸地方、北海道と遠洋漁業の基地に出荷されることが多く、「当時の遠洋漁業は1回の航海に何百丁と包丁を持ち込み、漁が終わると限られた積載量に少しでも獲物を詰め込もうと、道具類は廃棄してしまうのが常で、とにかく早く、大量に製造することが要求された」。

 「エキセンプレス」と呼ばれる小型プレス機にハイス鋼の治具を取り付け、材料を誰が割っても同じ深さで割れるようにするなど、創意工夫で大量受注をこなしていった。

 忠一郎会長は「入社当初は先輩職人の外山修司さんに負けないようにと切磋琢磨した。弟の友二、清三が入社した昭和40年頃、大まかに今の体制になると、しても、しても仕事の山で、残業では発売したてのチキンラーメンを食べた思い出がある」と振り返った。西四日町へ移転して工場を拡大、さらに東本成寺に移転すると「1つ棟を造り、また1つの棟を造り、さらに屋根を跨いでかけてと3期工事で工場を拡張した」ほどで、平成7年に現工場が竣工し、平成27年にはファクトリーショプが完成した。

 工房心得にある「子どもたちのあこがれとなるべき仕事」を会社としても産地としても残していく。8歳の4代目候補、忠信君が引き継ぐ100周年に向けて。
                                             (外山)

 2018年01月04日冬季特集号掲載